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中国史人物伝

道化から仙人に昇華した”トリックスター” 東方朔(前漢)(2) 滑稽の雄

東方朔(1)はこちら>>

機知や滑稽で漢の武帝に気に入られた東方朔は、

――われは万事に通じ、公卿の重任に耐えられる。

と、つねに自負していたが、ちゃらけたキャラクターのせいか

軽く扱われてしまい、低位に甘んじるしかなかった。

生前は不遇であった東方朔であるが、死後に神格化され、

仙女西王母の桃を食べて長寿を得た仙人になった。

東方朔の寡欲で些事にこだわらない生き方が、そうさせたのであろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

面目躍如

東方朔も、過誤を犯すことがあった。
酒に酔って宮殿にはいり、殿上で失禁してしまったのである。
そのことを不敬であると弾劾され、東方朔は免官され、庶民に貶とされた。
のちほとぼりが醒め、宦者署で詔を待つよう命じられた。
ちょうどその頃、昭平君が酒に酔って妻である夷安公主の傅(女官)を殺し、獄に繋がれた。
夷安公主は武帝の女であり、ふつうであれば、死罪に抵たろう。
しかし、武帝の左右の人びとは、
「贖金が予納されておりますゆえ、お許しくださいますよう」
と、とりなした。
昭平君の母隆慮公主は武帝の妹で、すでに物故していたのであるが、
昭平君が死罪を犯した場合に備え、生前に贖金を納めてくれていた。
しかし、武帝は情にほだされず、
「法令は、先帝が制定なされたものじゃ。
妹のために先帝の法をまげてしもうては、何の面目があって高廟(高祖の廟)にはいれようか。
また、下は万民にそむくことにもなる」
と、いい、刑の執行を命じた。
満座は、哀しみにつつまれた。
そんななか、東方朔は進みでて、聖寿を寿いで、
「聖王の政は、賞は仇讎を避けず、誅は骨肉を択ばず、と臣はきいてございます。
また、『書』(周書・洪範)に、不偏不党なれば、王道は蕩蕩(平らか)たり、とございます。
このふたつは五帝が重んじ、三王が困難としたことです。それを、陛下はなさいました。
天下は幸甚でございます。臣は觴(さかずき)を捧げ、昧死再拜して万歳の寿を奉ります」
と、申しあげた。
武帝は起ちあがり、禁中にはいった。
しばらくすると、東方朔は召しだされ、
「『伝』(『論語』憲問篇)に、時にして然る後に言う、人その言を厭わず、という。
先生は寿を祝ってくれたが、いまはその時なのか」
と、武帝に責譲された。
東方朔は冠をぬぎ、頓首していった。
「楽しみがすぎると陽の気があふれ、哀しみがすぎると陰の気が損なわれ、陰陽の気が変われば心気が動き、
心気が動けば精神が散じ、精神が散ずれば邪気が及ぶ、と臣はきいてございます。
憂いを銷すには酒がいちばんにございます。臣が寿福を奉りましたのは、
陛下が正しくて阿らないことを明らかにし、お哀しみを止めたいとおもうたからにございます」
これにより、東方朔は中郎に復し、帛百匹を下賜された。

諷 諫

ときに、天下は侈靡にして末業(商工)に趨り、農畝を離れる百姓が多かった。
「民を教化したいんじゃが、どういたせばよいかのう」
武帝からそう諮われ、東方朔はつぎのように応えた。
「孝文皇帝は、四海を富有しながら、質素な黒いつむぎを身にまとい、革の舄を履き、なめし皮で剣を帯び、
蒲の席を敷き、刀は木で刃がなく、着衣に模様はなく、上書をいれた袋を集めて宮殿の帷になさいました。
また、道徳を麗飾とし、仁義を準(ものさし)となさいました。
すると、天下はこれを見習うようになりました。
いま、陛下は城中が小さいからとして建章宮を起工し、千門万戸と号称なさろうとしておられます。
上はかように淫侈であるのに、民だけ奢侈を禁じ、農耕に励ませようとしても難しいでしょう。
陛下が臣の計をお用いになり、数多の帳を四通の衢で焼きすて、駿馬をおしりぞけあそばされれば、
堯舜の隆世とも治績を比べられましょう。
その本を正して万事理まる。之を豪氂に失すれば、差は千里をもってす。
『易』に、そうございます。陛下には、このことをよくお考えいただきますよう」
東方朔はそう諷諫し、武帝の過失を救った。

諂 諛

「先生は、朕をどんな主と視るか」
あるとき、武帝からそう諮われ、東方朔はつぎのように応えた。
「唐(堯)虞(舜)の隆世や成康の治世であっても、当世を諭えるに足りません。
臣が伏して観ますに、陛下の功徳は五帝の上、三王の右にございます。
のみならず、天下の賢士を得られ、公卿に適材を得られておいでです。たとえて申せば、
周公(旦)や邵公(召公奭)を丞相とし、孔丘を御史大夫とし、太公(望)を将軍とし、
伯夷を京兆(尹)とし、管仲を馮翊とし、柳下恵を大長秋(皇后府の長官)とし、史魚を司直とし、
蘧伯玉を太傅とし、孫叔敖を諸侯の相とし、子産を郡守としておられるようなものです」
そこまで持ちあげられてしまえば、武帝は大笑いするしかなかった。

自 慰

武帝期には、数多の賢臣が輩出した。
「方今、公孫(弘)丞相、児(寛御史)大夫、董仲舒、夏侯始昌、司馬相如、
吾丘寿王、主父偃、朱買臣、荘助、汲黯、膠倉、終軍、徐楽、司馬遷などは、
みな思慮分別があって博識で、文辞はあふれんばかりじゃが、先生は自身と比べ、どうじゃな」
東方朔は、武帝からそう諮われ、
「臣は不肖ではございますが、かれらの数人分を兼ねてございます」
と、いって、おのれの胸をたたいた。
だが、武帝は真に受けなかったようである。
公孫弘以下、司馬遷に至るまで、みな出世して公卿になったのに対し、
東方朔は太中大夫(皇帝の顧問官)になったものの、その後は、郎官(宿衛の官)のままで留め置かれ、
枚皋や郭舎人らとともに武帝の御伽衆として左右に侍り、戯言して人をあざけっているだけにすぎなかった。
――なにゆえ、おわかりいただけないのか。
おのれの不遇を嘆いた東方朔は、上書して、農戦強国の計をのべ、
自分だけが大官を得られずにいることを訟え、試用されることを求めた。
しかし、主旨が放蕩で、すごぶるおどけていたため、用いられなかった。
東方朔は、『答客難』を著し、卑官に甘んじた自身を慰めた。

保 身

――滑稽の雄。(『漢書』東方朔伝)
正史にそう評された東方朔は、伯夷や叔斉の生き方を非、柳下恵の生き方を是とし、
「立身出世なんか求めんと、禍を避けることを第一に考えよ」
と、子を戒めた。
武帝期に鼎位に昇った者に、罪を得て処刑された者が少なくなかったことを想えば、
東方朔が保身を旨とした処世訓を遺したのも無理はない。

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