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中国史人物伝

後れてきた大器 朱買臣(前漢)

人生80年の現代にあって、40歳代になってもなお志を遂げられず、貧困から抜け出せなければ、

周りの目が気になり、夢をあきらめざるをえなくなろうか?

朱買臣(あざなは翁子)(?-前115)

は、50年を生きることが難しかった時代に、40歳代になってもなお志を遂げられず、

貧困に喘ぎながらも読書を続け、50歳代になって栄達し、富貴をつかんだ。

かれは艱難辛苦を耐え抜き、たゆまぬ努力が報われると、

他人から受けた恩に報い、恩人が抱く恨みに報いた。

大器晩成・立身出世を絵に画いたような朱買臣の人生は、報い報いられの連続であった。

恩讎すべてに報いたかれに、待ち受ける末路とは?

中国史人物伝シリーズ

目次

貧困にあって志を失わず

朱買臣は、会稽郡呉県の貧家に生まれた。
――学問に打ち込めば、栄達できる。
かれはそう信じ、読書を好み、将来の立身出世を夢みつづけた。
しかし、四十歳を過ぎてもまだ出世できず、貧困を抜け出せないでいた。
『礼記』には、男子は三十歳で結婚する、とある。
その年齢を超え、妻帯した朱買臣は、農作業に身を入れず、いつも薪や柴を刈り、それを売って生活に充てた。
かれは束ねた薪を背負い、歩きながら『春秋』を口ずさみ、『楚辞』を歌った。
かれの妻も一緒に薪を背負っていたが、夫が道中書物を誦読することを嫌い、
「ちょっと、歌いながら歩くの、やめてくれない」
と、時々、注意した。
朱買臣は注意されてやめるどころか、いやましに速く歌うようになった。
妻は恥ずかしさに耐えられず、朱買臣に離縁を申し出た。
「われは五十歳になれば富貴になるが、もう四十歳を過ぎている。なんじにも長いこと苦労をかけたが、
われが富貴になってなんじに報いるのを待ってはもらえまいか」
朱買臣は、笑いながらそういって再考を促したが、妻は、
「このままあんたと一緒にいたって、溝の中で飢え死にしてしまうだけじゃない。富貴になどなれるわけない」
と、怒りを募らせた。
結局、朱買臣は妻を引きとめることができず、離縁を認めるしかなかった。
その後、朱買臣は独りで道を歩きながら書物を誦読し、墓地のあたりで薪を背負って暮らしていた。
もとの妻とその再婚相手が墓参りに行くと、朱買臣が飢え凍えているのをみた。
そこで、かれらは朱買臣を家に連れて行き、食事を恵んだ。
かれの四十歳代の風景は、立身出世とはおよそ縁の遠いものであった。

大器晩成

数年後、朱買臣は上計の吏の卒として随行し、都長安へ上った。
そのとき、同郷の荘助の推挙を受け、武帝に謁見する機会を得た。
朱買臣は、『春秋』を説き、『楚辞』について述べた。
儒学を重んじた武帝はたいそう喜び、朱買臣を中大夫に任じ、荘助とともに侍中(側近)とした。
その頃、武帝は朔方郡に築城しようとしたが、御史大夫(副首相)の公孫弘が、
「中国を疲弊させ、無用の地を守るだけです」
と、反対していた。そこで武帝は、
「朔方郡を置く利益を挙げ、弘を論破せよ」
と、朱買臣に命じた。
朱買臣は利害十か条を挙げ、武帝の御前で公孫弘に論戦を挑んだ。
すると、公孫弘はそのうちの一か条にすら反駁できず、朔方郡設置を認めた。
その後、朱買臣は他人の罪に連座して免職となり、会稽太守の郡邸に寄寓した。
しかし、しばらくすると、再び召しだされた。
この頃、東越がしばしば叛いていた。
「いま兵を出して南進すれば、東越を滅ぼすことができましょう」
朱買臣がそう進言すると、武帝は、
「富貴になって故郷に帰らないのは、錦の衣を着て暗い夜道を行くようなものじゃないか」
と、いい、朱買臣を会稽太守(知事)に任じた。
かれの長年の意望が、ついに成就したのである。
そこでうれしさを発露しなかったのは、年を取ってから出世したからであろうか。
かれは、このとき五十歳を過ぎていた。

報 恩

――みなを驚かせてやろう。
朱買臣は服を着替えず、太守の印綬を懐に隠し、歩いて郡邸に帰った。
そのとき、邸内は酒宴の最中で、会稽郡の役人らはたれも朱買臣には目もくれなかった。
朱買臣も一緒に食事をし、満腹になりかけた頃に、太守の印綬を少しちらつかせた。
役人のひとりがそれに気づき、綬を引き出して印を視ると、会稽太守の印章であった。
満座は騒然となり、互いに押し合いながら中庭で新太守に拝謁しようとした。
ほどなく、朱買臣が太守として故郷に赴任することになった。
――新しい太守がお越しになられる。
会稽郡は人民に道を清掃させ、役人が並んで送迎し、行列の車が百台以上も連なった。
呉県に入ると、もとの妻とその夫が道路を修繕しているのをみつけた。
「やあ、そんなところにいたか」
朱買臣は車を停めて呼び止め、二人を後車に乗せて太守の邸に招き、食事を与えた。
ひと月すると、もとの妻が恥じて縊死してしまった。
朱買臣は、夫に費用を与えて葬儀をさせた。
また、かれは旧友すべてを召しだして引見し、かつて恩を受けた人たちすべてに恩返しした。
長く貧困に喘いでいた間、他人からどんなに嘲られてもかれは富貴になるという志望を棄てなかった。
――信念を貫き、倦まずに努めればいつか必ず報われる。
かれは、みずからの生涯でそれを体現してみせた。

報 復

会稽太守として東越を撃ち破る軍功を挙げた朱買臣は、主爵都尉(都知事)に任じられ、大臣になった。
数年後、罪を犯して罷免されたが、その後丞相長史(首相補佐官)となった。
この時、丞相(首相)の荘青翟は名のみで実権がなく、御史大夫の張湯が武帝に尊重され、
国家の大事はすべて張湯が決めているような状態であった。
朱買臣にとって、張湯は恩人である荘助の讎であった。
荘助は、朱買臣が長史になる前に刑死していたのである。
元狩元年(紀元前一二二年)、『淮南子』を編纂させたことで知られる淮南王の劉安の謀反が発覚した。
取り調べが進むうちに、荘助が劉安と親しく交際していた事実が明るみに出た。
荘助を寵愛する武帝は、微罪であるとして荘助を不問に付そうとした。
ところが、当時廷尉(司法長官)であった張湯は、
「助は腹心の臣でありながら、諸侯と私交しております。
もしこれを罪に問わなければ、今後こうした者を取り締まることができなくなります」
と、主張した。そのため、荘助は劉安に連座して有罪とされ、棄市にされた。
以来、朱買臣は張湯を恨んでいたが、まさか上司になろうとはおもいもよらなかったであろう。
とはいえ、共に仕事をする以上、会わないわけにはいかない。
朱買臣が仕事の話を張湯にしにいったところ、湯は牀(寝台)の上に腰かけたまま、自身の下僚のように扱い、礼遇しなかった。
――それが、年長の人に対してすることか。
かつて朱買臣が侍中であったとき、
張湯は朱買臣らのまえで跪伏して使われるような小役人にすぎなかったではないか。
それを想えばやるせないが、血の気の多い楚の気風をもつ朱買臣は、
張湯の態度を深く根に持ち、恥辱に耐えながら張湯への恨みを募らせ、
――命に代えても、きゃつに報いたい。
と、つねづね望んでいた。
元鼎二年(紀元前一一五年)、朱買臣は、
同僚の王朝や辺通ならびに丞相の荘青翟と共謀して張湯の悪事を暴きだし、証人を捕えた上で告発した。
かれらが積みあげた証拠は、武帝に張湯への疑念をいだかせ、張湯を死へ追いやった。

末 路

遺産から張湯が私腹を肥やしていなかったことなどが明らかになると、武帝は張湯を哀惜した。
「臣を陥れたのは、長史でございます」
張湯は死の間際、そう書き遺していた。
また、親族らが張湯を手厚く葬ろうとすると、張湯の母が、
「湯は天子の大臣となりながら、悪評を被って死んだんじゃ。どうして手厚く葬れよう」
と、いい、遺骸を牛車に載せ、棺だけで椁(外箱)なしで埋葬した。
武帝はそれを聞いて、
「こんな母でなければ、こんな子を生めなかったであろう」
と、いい、徹底的に取り調べた。
その結果、朱買臣は誅殺されてしまった。

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