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中国史人物伝

両頭の蛇 孫叔敖(蔿艾猟)(春秋 楚)

名君に名宰相あり。

長江中流域を本拠とした楚は、八百年続いた国である。

この国を、四十人以上の君主が治めたが、その中で最高とされるのが荘王である。

春秋五覇の一人に挙げられる荘王には、孫叔敖という名宰相がいた。

幼時の「両頭の蛇」の逸話で知られる孫叔敖は、宰相としてどんな事績を残したのであろうか。

中国史人物伝シリーズ

両頭の蛇 孫叔敖

目次

両頭の蛇

孫叔敖がまだ幼い頃、遊んでいる最中に頭を二つ持つ蛇をみつけた。
とっさにその蛇を殺し穴に埋めた孫叔敖は、家に戻るなり、
「私は、もうじき死にます」
と、母に泣きついた。
――両頭の蛇を観た者は、死ぬ。
そう信じられていたからである。
――自分が不吉なものをみたことを恐れずに、他人が不吉なものをみるのを恐れた。
そう見抜いた母は、息子の優しさに心を打たれ、
「あなたは死にませんよ」
と、安心させた。
人知れず恩を施すことを、陰徳という。
幼少時からそれを実践できた孫叔敖は、母のいう通り、死なずに成人を迎えることができた。

若敖氏と蔿氏

孫叔敖は、本名を蔿艾猟といい、楚の大臣である蔿賈の子である。
蔿氏は楚国の名家で、楚の武王の弟である蔿章が蔿を領地として授けられたことに始まる。
孫叔敖は、蔿章の曽孫である。
当時楚で最も権勢を誇ったのは、楚の君主であった若敖から岐れた若敖氏であった。
虎の乳で育てられた伝説をもつ名宰相子文を輩出した若敖氏の権勢は、時の楚王であった荘王でさえも忌憚するほどであった。
――何とか若敖氏の勢力を殺いで、自らの意思を国政に反映させたい。
そう意った荘王が目をつけたのが、蔿賈であった。
蔿賈は名家の出であった上、旗鼓の才があった。
荘王は、蔿賈を重用し、若敖氏の封じ込みをもくろんだのである。
荘王の意望を悟った蔿賈は、事あるごとに令尹(宰相)の子揚を讒言した。
荘王は讒言を容れて子揚を死刑にし、子揚の従兄弟の子越を令尹に、蔿賈を司馬とした。
司馬は軍事の最高職であり、副宰相でもある。荘王の蔿賈への期待の高さが窺える人事である。
一方、穏やかでないのは令尹になった子越である。かれは、子揚が蔿賈の讒言によって殺されたことを恨んだ。
――蔿賈の背後に、王がいる。
そう見抜いた子越は、蔿賈を幽閉し、殺害し、荘王に反旗を翻した。
荘王は子越の反乱を鎮圧し、若敖氏を弱体化し、王権の強化に成功した。紀元前605年のことである。

宰相としての手腕

孫叔敖(蔿艾猟)の名が史書(『春秋左氏伝』)に初めて現われるのは、紀元前598年であった。
そのとき、かれはすでに楚の令尹であった。
かれは沂邑に城壁を築くにあたり、まず、土木職の役人に工事の設計をさせ、監督官にそれを授けた。
作業量を見積もって工期を決め、資材を調達し、版築に使う板を平らにした。
また、特定の人に仕事が偏らないようにし、盛り土の分量と運ぶ距離を見積もり、城壁の土台を見定め、作業者の食糧をそろえ、役人を適材適所に配置した。
その結果、築城は万事計画通りに行われ、30日で竣工した。
また、孫叔敖は寿春近郊に芍陂という大きな貯水池を造り、付近を流れる淮河の水を農地に灌漑して農作物の増産をもたらした。芍陂は安豊塘とも呼ばれ、今なお使用されている。
孫叔敖が戦功を挙げたという記事が、史書にはない。
軍事に長けた父とは異なり、かれの異才は土木建設をはじめ内政で発揮されたようである。
荘王の治世に楚が天下で勢力を拡大することができた背景には、孫叔敖による富国の成功があったであろう。
孫叔敖は幼少期から抱いていた他者への思いやりを、長じてからも失わなかった。
かれは人民を教化してよく導いたので、楚では上下が和合した。
寛容な政治を行い、禁令を緩めたにもかかわらず、邪な役人がいなくなり、盗賊も現れなくなった。
子越を除いてから旗鼓の才をもつ将を喪ったせいか、荘王自ら大軍を率いて国外に遠征することが多くなった。
荘王は、孫叔敖を宰相に据えてから国力の充実を実感し、安心して国を空けることができたのではないか。
一方、『春秋左氏伝』には、楚の宰相となった孫叔敖が楚国の兵典を制定した、という記述がある。
兵典とは、軍制や軍務はじめ軍事全般に関する法規である。
行軍時には、右翼は将が乗る兵車の轅の方へ進み、左翼は宿衛の草を集め、前軍は万一に備え、中軍は権謀をめぐらし、後軍は強く、百官は物に象った旗に従って動き、戒める必要がない。
晋の士会の発言によれば、戦場で対峙した楚軍の軍容はそのようであり、孫叔敖が作った兵典がうまく運用されたからであるという。
そうなると、孫叔敖が軍事に昧いとはあながち言い切れない。
孫叔敖も、遠征に従軍したことがある。
邲の戦いである。

王への恩返し

紀元前597年、荘王は北伐の兵を起こし、鄭を攻めた。
鄭は盟主国である晋に援軍を要請し、籠城を続けた。
しかし、三か月が経っても晋からの援軍が来なかったため、孤立無援となった鄭は楚に降服した。
北伐の目的を達成した荘王は、北進し、馬に黄河の水を飲ませてから帰途に就こうとした。
そのとき、晋の大軍が黄河を渡り、鄭の領内に入ってきた。
――晋師現る。
この報に接した荘王は、進軍を停め、引き揚げを命じようとした。
そこへ、晋との交戦を進言した者がいた。寵臣の伍参である。
伍参は晋の諸将の足並みが乱れていることを指摘し、
「戦えば、勝てます」
と、主張した。
そんな伍参をたしなめたのが、孫叔敖であった。
楚軍は休む間もなく連戦し、疲弊している。
この状態で晋軍と戦えば、勝てたとしても国力の消耗は避けられない。
国政を与る宰相の立場からすれば、晋軍との交戦を回避しなければならない。
荘王は孫叔敖の意見を容れ、晋と講和することに決めた。
ところが、晋の使者が荘王の陣に夜襲をかけた。
応戦した荘王の兵車が、晋軍を追いかけるうちに晋の陣中に突入しようとしていた。
――王が危ない。
孫叔敖は、荘王を救うべく全軍に攻撃命令を下した。
楚軍は足並みのそろわない晋軍に襲いかかり、潰走させた。
この戦いで天下の形勢は一変し、晋の同盟国が続々と晋の盟下から脱け、荘王を盟主と仰ぐようになった。
こうして、荘王は中華の覇者となった。
孫叔敖は、おのれを擢用し、かつ父の仇を取ってくれた荘王に、恩返しできたといってよいのではなかろうか。

先見の明

邲の戦いから凱帰した後、荘王は孫叔敖に恩賞として希望する土地を尋ねた。
――漢間の地、沙石の処。
漢水沿岸の砂や石の多いところ、これが孫叔敖が所望した地である。
楚の国法では、臣下に下賜された領地は、二代限りで没収される決まりであった。
だが、孫叔敖に与えられた土地は瘠せていたため没収されず、九代後になっても祭祀が絶えなかったという。
孫叔敖の慧眼は、数百年先までも見通すことができたのであろうか。

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