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中国史人物伝

柳にもやどり木は有柳下恵 孔子や孟子に称揚され、吉田松陰に師表とされた創られた聖人 展禽(春秋 魯)弟は大泥棒⁉

幕末の思想家 吉田松陰は、安政元年(1854年) にペリーの軍艦に乗りこみ、

アメリカへ密航しようとしたが、失敗し、投獄された。

獄中で、松陰は他の囚人たちに『孟子』を講義した。

その内容を著した『講孟箚記』で、

「余、もっとも柳下恵の行を愛す」

と、述べた松陰は、

「余は則ち柳下恵を主とす」

るのが志である、とまで述べている。

松陰にそこまでいわせた

柳下恵(展禽)

とは、どんな人物であったのか。

中国史人物伝シリーズ

目次

虚実のはざま

柳下恵は紀元前七世紀の魯の大夫で、本名は展獲(あざなは、禽または季)、魯の孝公の玄孫である。
柳下は地名で、かれの采邑(知行地)とされるが、かれの居所とする説もある。
恵は、かれの謚である。
――冠礼(成人式)時にあざなをつけ、五十歳になると伯仲などの排行を付す。
という『礼記』(檀弓上)の説に従えば、かれは、禽というあざなをもつ末子である。
かれのことは、『国語』や『春秋左氏伝』には展禽と称されることが多いが、他の文献には柳下恵と記される。
『国語』や『春秋左氏伝』の記事は史実に近いとおもわれるが、
それ以外は、おそらく『論語』の影響を受けた創話であるかもしれない。
その観点から、以下、『国語』や『春秋左氏伝』をもとにした記事では展禽と称し、
その他の文献に依拠した記事では柳下恵と称すことにする。

大 功

僖公二十六年(紀元前六三四年)に、斉が魯攻伐の兵を挙げた。
「文辞で何とかならぬものか」
魯の宰相であった臧文仲(臧孫辰、孝公の玄孫)からそう訊かれた展禽は、
「われは、大国にあっては小国に教え、小国にあっては大国に仕える、と聞いております。
そうすれば乱を防ぐことができます。
小国のくせに尊大にかまえて、大国を怒らせて、自国が乱れれば、文辞ではどうにもなりません」
と、にべもなく返した。
――臧孫(辰)の外交の失敗が招いた外敵ではないか。
というおもいがあったからであろう。
だが、臧文仲は引きさがらなかった。
「国の危急じゃ。どんなものでも、斉が喜びそうなものなら惜しくない。あなたの文辞で斉に贈賄できぬか」
「やってみましょう」
展禽は斉を慰問する文書を作成し、一族(弟とも)の展喜(乙喜)に膏沐(髪へつける油)をもたせて
斉軍を慰問させた。そして、斉の孝公に、つぎのように言上させた。
「昔、周公と太公(望)は周王室の股肱となって成王を輔佐しました。
成王はその労をねぎらって、世世子孫相害うことなかれ、と命じられました。
君がご即位なされますと、諸侯は、きっと桓公の功業をお継ぎになられよう、と期待しました。
いま、君がお出ましなさって弊邑の罪をただされようとなさいます。
魯が罪に服せば、お許しくださいましょう。よもや魯の社稷を滅ぼしたりなどなさらないでしょう」
孝公は覇者であった父の桓公にあこがれ、諸侯に心服されたいと望んでいた。
展禽はそれを看抜き、展喜にうまくくすぐらせ、おだてあげさせた。
そのもくろみが中たり、斉軍は引きあげていった。

爰 居

爰居という海鳥が、魯の都城の東門に、三日間とどまっていた。
――異なるかな。
臧文仲が、国人に爰居を祭らせた。
「越なるかな、臧孫は――」
展禽は、これに憤慨し、
「祭祀は国家の大事な制度であり、制度は政治の大本である。ゆえに慎重に祭祀を制定して国法とするのだ。
わけもなく国法を増やすのは、よい政治とはいえない」
と、批判を展開した。
功績のないものを、祭ってはならない。
知らない海鳥がやってきたから、それを祭り、国法を増やすのは、いかがなものか。
知らなければ、なぜ問わぬのか。
「この年は、海で災害が起こるんじゃないか。大きな川に棲む鳥獣は、いつも災害を予知して避けるものだ」
爰居が飛来してきたわけを、展禽は、そう推察した。
「わが過ちじゃ。季子(展禽)の言を、国法とせねばならぬ」
展禽の発言を伝えきいて、臧文仲は、そう述べた。

『論語』の柳下恵

逸 民

柳下恵は、『論語』(微子)に三たび登場する。
柳下恵は士師(司法長官)になったが、何度も罷免された。
――そこまでこだわる必要はあるまい。
そうおもった人から、
「他国へ去らないのですか」
と、問われ、
「道を通して人に仕えれば、どこへいっても何度も罷めさせられるでしょう。
道を枉げて人に仕えるくらいなら、どうして父母の邦を去る必要がありましょうか」
と、柳下恵は応えた。
おのれを見失わず、地位や体面にこだわらなかったかれは、逸民のひとりに挙げられる。
逸民とは、隠者あるいは世捨て人とされるが、
もっといえば、高節でありながら世俗に認められなかった人物といえよう。
「志を枉げ、わが身を辱めて仕官したこともあったが、発言は人倫にかない、行動は思慮にかなっていた」
柳下恵をそう評した孔子は、みずからを、
「可も無く不可も無し」
とした。
この語は、現在では平凡の意で用いられることが多いが、ここでは中庸の意であろう。

孔子の評価

なぜ孔子は柳下恵を高く評価したのであろうか。
孔子は、君主の威権を陰らす三桓、特に季孫氏を批判していた。
柳下恵のときに魯の国政を牛耳っていたのが、臧文仲であった。
『論語』のなかで、孔子は臧文仲を痛烈に非難している。
これは、臧文仲を季孫氏に見立ててのことであろう。
孔子は、柳下恵の賢を知りながら鼎位に引きあげなかった点でも臧文仲を非難している。
絶対的な権力者であった臧文仲に臆することなく諫言を呈したのが、柳下恵であった。
柳下恵は、魯の賢大夫として知られる。
かれが務めた司法官は要職ではあるが、地味な役回りであり、記録に残る事績が多くない。
孔子はそこに目をつけて、柳下恵にみずからを仮託したのではあるまいか。
孔子は自説に説得力をつけるため、柳下恵の事績を都合よく脚色した。
魯の賢人として知られた展禽は、儒学の勢力が大きくなるにつれて過大評価され、高節の士柳下恵になった。
時が経ち、儒者が増えるにつれ、
孔子やかれの門人が脚色したものでさえ、柳下恵のこととしてまことしやかに信じられるようになった。

聖の和

柳下恵は、孔子を私淑した孟子によって、聖人へと昇華された。
「汙君(暗君)に仕えても羞じることなく、小官(卑官)でも嫌がらずに務めた」
孟子は、柳下恵の生きかたを、そう評した。
柳下恵は、才能のかぎりを尽くして道を枉げず、他人から見捨てられても怨まず、
困窮しても憫えることなく、気楽に生きた。
「なんじはなんじ、われはわれ」
そういって、いつも楽しそうにしているから、かれの話を聞いた者はみな感化される。
そんな柳下恵を、
「聖の和なる者」(『孟子』万章下)
と、孟子は評した。
たれとでも調和する徳をもつ聖人である、と称賛したのである。
『孟子』の記述から演繹される柳下恵の人物像とは、
「他者には寛大で、自己には厳しい」
というものであり、吉田松陰が柳下恵を師表としたのも、そのあたりにあろう。

坐懐不乱

柳下恵の善行は、おもいがけない伝説を生んだ。
都城には、門限がある。
その門限に遅れた女人がいた。
翌朝にふたたび門が開くまで、かの女は寒い夜を野外で過ごさなければならない。
――かわいそうに。
柳下恵は寒さにふるえるかの女を憐れみ、
「こちらへおいでなさい」
と、自分の衣服のなかに入れ、ひと晩抱いて温めてあげた。
男女がひと晩おなじ衣にくるまっていたのであるから、淫乱に及んだとおもわれてもしかたあるまい。
しかし、おどろいたことに、たれも男女の仲を疑わなかった。
柳下恵の積年にわたる善行が、国人にそうおもわせたようである。

柳にもやどり木は有柳下恵

という与謝蕪村の句は、この情景を詠んだらしい。

弟は大泥棒⁉

柳下恵は、道教の聖典というべき『荘子』(盗跖)にも登場する。
そこでは、末子であったはずの柳下恵に
盗跖
という弟がいた。
天下の大盗賊として名高い人物である。
その盗跖を、孔子が説伏しようとして、逆に論破されたという。
この話は、権威の失墜を狙った創話であろう。
孔子の生誕時には死没していたはずの柳下恵が、孔子と会話をしているところで、実話ではないとわかる。
極悪人の兄にされて、柳下恵は草葉の陰で笑っているであろう。

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