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中国史人物伝

名将にして名相 商鞅に影響を与えた『呉子』の主人公 呉起(戦国 魏・楚)(1) 素行と才能

現在の情報化社会において、『孫子』を扱うビジネス書がなんと多いことか――。

そして、『孫子』とならんで取りあげられることが多い兵法書が、『呉子』である。

『呉子』は、戦国時代に著されたとされ、
呉起(? - 前381年)
が魏の文侯・武侯父子と交わした問答の形式をとっており、戦国時代末期には、

――孫呉の書を蔵する者、家ごとにこれ有り(『韓非子』五蠹)。

と、いわれるから、成立後、瞬く間に兵家の代表として支持されたとおぼしい。

戦場にあっては常勝の名将、内政においては大胆な改革を断行した名宰相

万能ともいうべきかれが、なにゆえ波乱に富んだ生涯を送らねばならなかったのか――。

中国史人物伝シリーズ

目次

喪に帰らず

衛で
――千金を累ぬ(『史記』孫子呉起列伝)。
という富家に生まれた呉起は、
――卿相にならん。
と、大志をいだき、仕官を求めて諸国をめぐった。
しかし、どこからも採用されずにいるうちに、家産を食いつぶしてしまった。
このことを、郷里の者らに笑われた。
――なめげな――。
呉起はおのれを嘲笑した者三十余人を殺し、衛を去った。
母と訣れた際、呉起は肘を噛み、
「卿相になるまで、衛にはもどりません」
と、盟った。
衛を出た呉起は、曾子の弟子になった。
呉起が師事した曾子とは、孔子の弟子で孝行で知られる曾参であったとする説がある。
しかし、呉起の生年は曾参の没年に近いと考えられるので、
呉起の師は、曾参の子の曾申であった、とするのが適当であろう。
しばらくして、母が亡くなった。
呉起は訃報に接したものの、盟いを守り、衛に帰らなかった。
これが、かれなりの孝道であった。
しかし、師はそう看てくれなかった。
「刻薄なやつじゃ」
曾子は呉起をそう判じ、破門してしまった。
その後、呉起は魯へゆき、兵法を学び、魯で仕官を果たした。

魯の将軍

攻名心

斉軍が、魯に侵攻してきた。
――呉起を、将に。
と、魯君は意った。しかし、
「呉起は、斉の女人を娶っておりますぞ――」
という異見が、群臣のなかからあがった。
それゆえ、魯君は呉起を将にするとはいいにくい。
――なんとかして、名を得たい。
呉起は、功名心から妻を殺し、
「妻に先立たれてしまいました」
と、魯君に報じ、将に任じられた。
呉起は意気揚々と軍を率いて斉軍と戦い、おおいに撃ち破った。
しかし、凱帰した呉起にみせた魯の君臣の態度には、どこか冷たいものが感じられた。

素 行

じつは、
「呉起の人となりは、猜忍なり」
と、魯君の耳に吹きこんだ者があった。
――呉起は、疑い深くて残忍な男です。
と、中傷したのである。
さらに、その者は、呉起が家産を食いつぶしたこと、三十余人を殺して衛から去ったこと、
母の葬儀に帰らなかったため曾子に破門されたことなどをいいたてた。
これらは前述のとおりであるが、呉起を貶す文脈で使われていることを想えば、
実際よりも誇張されているのかもしれない。
それでも魯君が耳を傾けたということは、呉起にそのような事実があったのであろう。
魯君の反応をみて、讒言者は、
「魯は小国なのに、戦いに勝ったことが知れ渡れば、諸侯は魯を伐とうとするでしょう。
魯と衛は、(衛の祖である康叔は、魯の祖である周公旦の弟で、)兄弟の国です。それなのに、
君が衛でお尋ね者になっているような者を起用してしまえば、衛との交わりを棄てることになりますぞ」
と、たたみかけた。
周公旦を祖とする魯は、古礼を重んじる国がらであった。
その国の為政者として、呉起が犯した数々の不行跡を聞き捨てにすることなどできようものか。
以後、呉起は用いられなくなった。

魏の文侯

呉起は、魯を去った。
負けん気が強いかれは、
――魯を見返してやろう。
と、心に誓った。
そのためには、魯よりも強い大国に仕えなければならない。そんなおりに、
――魏君は、賢明である。
という評判を耳にした。それをたよりに、呉起は魏へ移った。
ときの魏の君主は、文侯であった。
文侯は孔子の弟子であった子夏を師に迎え、子夏の弟子の李悝を宰相に据えるなど
天下の人材を積極的に登用して政治改革を断行し、富国強兵を果たした名君であった。
その文侯から、呉起は将に起用された。
――さすがは、賢君よ。
意気に感じた呉起は、文侯の命で秦を攻めると、五城を抜いてみせた。

吮疽之仁

呉起は将でありながら、行軍中、最下等の士卒と衣食をともにし、床のうえで横になって眠り、
兵車には乗らず、みずから兵糧をかついで歩くなど、士卒と労苦を分かちあった。
疽(悪性のはれもの)を患った兵卒がいれば、呉起はその膿を吸いだしてあげた。
それをきいて、呉起に膿を吸いだしてもらった兵卒の母が哭いた。
「士卒であるお子さんの膿を、将軍がみずから吸いだしてくださったんじゃ。どうして哭くんじゃ」
ある人からそう訊かれ、かの女は、
「悲しくて哭いているのではありません」
と、頭を横にふり、
「往年、呉公はあの子の父の膿を吸いだしてくださいました。
すると、父は敵に背をむけることなく戦って、討ち死にしてしまいました。
呉公は、こんどはわが子の膿を吸いだしてくださいました。
あの子もわらわの知らないところで死ぬことになりましょう。それゆえ、哭いているのです」
と、応えた。
呉起は西河(黄河西岸の地)の太守に任じられ、秦や韓の侵攻に備え、たいそうな名声を得た。

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