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中国史人物伝

愛すべき楽天家 蘇東坡(蘇軾)(北宋)(11) 行雲流水

蘇東坡(蘇軾)(10) はこちら >>

2022年(令和4年)、日本サッカー協会は、森保一監督の名にちなんだ11月1日に、

ワールドカップ(W杯)カタール大会に出場する日本代表26人を発表した。

発表後、森保監督は、記者から現在の心境を問われ、

「行雲流水」

と、答えた。(2022年11月2日朝日新聞朝刊)

行雲流水とは、蘇東坡が文章作法について述べた語である。

この語から、行く先を決めずに遍歴して修行する禅僧を雲水と呼ぶようになった。

蘇東坡は若くして科挙に合格し、国政の革新を志したが、直言を憚らぬ性格が災いし、

政治的な圧迫を受けて左遷されるなど苦難の連続で、政治家としては不遇であった。

それなのに、かれの生涯は怨恨や絶望などといった暗晦なものとは縁遠かった。

蘇東坡は悲しみや辛さを笑いで包みこみ、

機知や諧謔を交えつつ詩文書画に稀有な才能を発揮した。

真に勁い人とは、このような人をいうのであろうか。

中国史人物伝シリーズ

蘇東坡(蘇軾)(1) 大志
蘇東坡(蘇軾)(2) 科挙
蘇東坡(蘇軾)(3) 出世と訣れ
蘇東坡(蘇軾)(4) 王安石の新法
蘇東坡(蘇軾)(5) 超然
蘇東坡(蘇軾)(6) 筆禍
蘇東坡(蘇軾)(7) 赤壁賦
蘇東坡(蘇軾)(8) 元佑更化
蘇東坡(蘇軾)(9) 洛蜀党議

目次

海南島

紹聖四年(一〇九七年)に、長子の蘇邁が孫たちを連れて恵州へ移住してきた。
六十二歳の蘇東坡は三年ぶりの孫との再会に喜び、子や孫と暮らす幸せな余生を思い描いた。
しかし、ほどなく苛酷な命を受けた。
瓊州別駕に降格され、昌化軍安置とされたのである。
昌化軍とは、恵州よりさらに南方の海南島である。
南シナ海に浮かぶ海南島は、七四八年に日本へ渡航しようとした鑑真が漂着したことでも知られるが、
当時の中国の版図における最果ての地といってよいであろう。
それゆえ、宋代の官僚にとって、海南への左遷は最も厳しい罰であった。
この処置は、それだけ蘇東坡の名声が高かった裏返しともいえよう。
――もはや生きて帰ってこれまい。
そう覚悟した蘇東坡は、出発前、
「海南へ行ったら、まず棺を作り、次に墓を作り、死んだらそこに葬られるだろう」
という遺言を残し、末子の蘇過だけを伴って流謫の地へむかった。
途中で雷州へ流される蘇轍と合流した。
雷が多いことから雷州と名づけられたこの州は、海南島の対岸にある。
海南島に流される者の多くは、雷州を経由して流謫地へと向かう。
この年、新法党の旧法党への弾圧は最高潮に達し、嶺南など辺境の下級官人として配流同然の状態に置かれた。

載酒堂

紹聖四年(一〇九七年)七月、海南島に足を踏み入れた六十二歳の蘇東坡は、
――ここも中華なのか。
と、当惑したであろう。
住民の多くは土着の黎族で、文明が及ばない未開の地であった。
瘴癘の気が立ち込める熱帯地の劣悪な環境に慣れないことに加え、
老いてから再び左遷された傷心からたいへん落ち込み、
「嶺南は蒸し暑いが、海南は特にひどい。夏と秋の変わり目に腐らぬものはない。どれだけ耐えられようか」
と、かれらしからぬ悲観的な言を吐いたほどである。
ところが、地元の人たちから寄せられた人情は、おもいがけなく篤かった。
県官の張中は、蘇東坡の才能に敬服しており、自宅横の官舎にかれを住まわせ、もてなした。
だが、ほどなく朝廷が派遣した役人に見つかってしまい、官舎から追い出されてしまった。
すると、地元の人たちに助けられ、かれは檳榔の林の近くに土地を得た。
みながつぎつぎとかれを手伝い、家を建ててくれた。
いつしかかれは黎族の人びとと親しくなり、時には黎族の猟師から鹿肉をもらうこともあった。
蘇東坡は三部屋しかない新居を、
「檳榔庵」
と、名づけると、恩返しとばかりに学堂を開いた。
入学に授業料は不要で、酒を持参すればよかったので、その学堂は、
「載酒堂」
と、名づけられた。
蘇東坡は、海南島で機知に富んだ詩文を二百編以上も詠んだ。
かれのなかで、海南島に到着したころにあった悲愴感や寂寥感はいつしかなくなり、
逆に自由や楽しさを得るようになっていた。

生 還

元符三年(一一〇〇年)五月、海南島を朝廷の使者が訪れ、蘇東坡は知廉州安置の命を受けた。
正月に哲宗が崩じて弟の徽宗が即位し、向太后(神宗の皇后)が摂政になり、垂簾聴政をはじめた。
向太后は徽宗の即位に反対した章惇を追放して、
旧法党と新法党のそれぞれから宰相を起用するなど、両党の融和を図った。
その結果、嶺南などへ流されていた旧法党の高官が赦されたのである。
三年を過ごした海南島に深い思い入れをいだいた蘇東坡は、
「我本儋耳人、寄生西蜀州(私はもともと儋耳の人で、西蜀州に仮住まいしていた)」
と、詠み、六月に蘇過と海南島で飼いはじめた犬とともに舟上の人となった。
六十五歳の蘇東坡には、もはや中央政界へ復帰する気などなかった。
廉州へ到ると、永州への移住を命じられた。
蘇東坡は広州で家族と待ちあわせ、家族そろって永州へゆくことにした。
広州では、多くの人から歓待を受けた。
蘇東坡はあらゆる招きに応じ、求められればいやな顔ひとつせず、詩を書いたり書画を描いたりした。
そのようななか、朝廷から居住の自由を認めるという通知を受け取った。
――これからどこで暮らそうか。
蘇東坡は迷いに迷った挙句、家産が残る常州で余生を送ることにした。

生死のはざまで

建中靖国元年(一一〇一年)正月、広州を発った蘇東坡は、大庾嶺を越えた。
――七年間海外にいたのが、夢のようじゃ。
嶺を超えて江南へ戻る感慨を、かれは一片の詩に託した。
その後、常州に向かう船の中で罹病した蘇東坡は、常州に到ってから危篤に陥った。
「仏教の呪文を唱えなさい」
死を悟った病牀を見舞った友人からそう勧められると、
「平生、鳩摩羅什を笑う」
と、かれは詩で応酬した。
鳩摩羅什は南北朝時代に長安に来た西域僧で、法華経や阿弥陀経など九十七部四百二十五巻もの仏典を漢訳し、
仏教普及に貢献した。
それほどの高僧でさえ、臨終の際にひたすら呪文を唱えても、死を免れることはできなかった。
そのようすを諷刺した詩が、蘇東坡の遺作となった。
熱心な仏教徒であった蘇東坡が、死に臨んで冷静に諧謔を弄したのは、いかにもかれらしいといえようか。
七月丁亥(二十八日)、蘇東坡は六十六歳で波乱に富んだ生涯を閉じた。
「生死はささいなことであり、語るに足りぬ」
かれがそう述べたのは、なんと死の二週間前であったらしい。

行雲流水

白川静先生は、中国史上の人物で最も好きな人物として蘇東坡の名を挙げられた。
その理由を、つぎのように述べられている。
「彼はね、非常に才能もあり、正しいことを言うとるんだけれどもねえ、何遍も失脚してね、
海南島まで流されたりして、死ぬような目に遇うて、それでも知らん顔してね、
すぐれた詩を作り、章を書き、書画を楽しんでおった」
(『別冊太陽 白川静の世界 漢字のものがたり』「対談 ① 神と人との間 漢字の呪力 梅原猛 × 白川静」平凡社)
――文を作るは行雲流水のごとし(『宋史』蘇軾列伝)。
蘇東坡は、文章作法についてそう述べている。
行雲流水とは、ものごとにこだわらず、自然の成り行きに身を任せることをいう。
何ものにもとられることなく、自由気ままに生きる(「自由」は、もともと禅語であった)。
これが、かれの生き方の要訣であったのではなかろうか。
また、蘇東坡は、物には最初から決まった形などない、とも述べている。
ものを見た目で決めつけてはならない、と戒めているのであろう。
逆境にくじけず、明るく小事にこだわらなかったかれは、
後世の人びとに敬慕され、その詩文は人口に膾炙した。
海を越えた日本においても、今なおかれを愛する者が後を絶たない。

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