Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//愛すべき楽天家 蘇軾(蘇東坡)(北宋)(3) 出世と訣れ

中国史人物伝

愛すべき楽天家 蘇軾(蘇東坡)(北宋)(3) 出世と訣れ

蘇軾(蘇東坡)(1) はこちら >>

蘇軾(蘇東坡)(2) はこちら >>

蘇軾は、成人してから経史に博く通じ、

賈誼(前漢の思想家)や陸贄(中唐の大臣)の書を好んだ。

また、『荘子』を読んで、

「以前みたときは、何もいえなかった。いまみて得心いった」

と、感嘆したらしい。

そんなかれは、郷里である眉州の風俗には、古昔に近いものが三つあったとのちに述べている。

・士大夫(役人)は儒学の古典を貴び、一族の伝統を重んじる。
・民は役人を敬い、法を畏れる。
・農民は一緒に農作業に励み、互いに助け合う。

これが、官吏になってからのかれの政策の根本にあったのではあるまいか。

中国史人物伝シリーズ

目次

鴛鴦之契

蘇軾と妻である王弗の仲はたいへん睦まじく、婚姻後三年で長子蘇邁が生まれた。
王弗には、人を観る眼があったらしい。
蘇軾が客人と話をすると、王弗は衝立のあいだに隠れて立ち聴きした。
客人が退出すると、王弗は客人の発言を復誦し、
「あの方はどちらともとれるようなことばかりいって、ただあなたがいったことに相槌を打っているだけです。そんな方と話をしなくてもよいのでは」
と、蘇軾に忠告した。
また、蘇軾に交誼を求めてきた者がいた。
「たぶん長続きしませんよ。親しくしようと必死になる人は、離れてゆくのも早いものですから」
王弗はそう釘を刺したが、はたして、そのとおりであった。
賢明な王弗は、お人好しな蘇軾の軽忽を戒め、たれとどのように付き合えばよいか助言していたらしい。

夜雨対床

嘉祐五年(一〇六〇年)の春、蘇軾は汴京(開封)に着くと、詩文の才を買われ、
試校書郎(試は定員外の意)を拝命し、福昌県の主簿に任じられた。
「そんなもん、そこもとの才に適したものではない」
欧陽脩はそう断じ、
「制科を受けてみないか」
と、蘇軾と蘇轍に勧めた。
制科とは、殿試の一段階上の臨時試験で、皇帝が直接査問するものである。
蘇軾は恩人の勧めに従って任官を断り、制科を受けるため、蘇轍とともに受験勉強に励んだ。
夜の雨の音を聞きながら薄暗い灯のもとで兄弟向かい合って勉強していると、
蘇轍が中唐の詩人韋応物の「夜雨対床」の詩に感銘を受けたといい、
「試験が終われば、きっと離れ離れになりましょう。
でも、きっとまたこの詩にあるように夜の雨音を聞きながら語り合いましょう」
と、蘇軾と約束を交わした。

離 別

嘉祐六年(一〇六一年)、蘇氏兄弟は欧陽脩の推薦で制科を受験し、
三人の合格者の中に兄弟そろってはいった。
蘇軾は第三等、蘇轍は第四等であった。
五段階評価ながら、第一等と第二等の設定がないため、蘇軾は最上位で及第したのである。
蘇軾は鳳翔府の簽書判官に、蘇轍は商州の軍事推官にそれぞれ任じられた。
判官および推官は、いずれも裁判官である。
鳳翔府と商州は遠くなく、
――赴任後も弟に会えるかもしれない。
と、蘇軾は期待した。
だが、蘇轍は寡夫となった父の世話をするために赴任を断り、都にとどまった。
冬に、蘇軾は妻子をともなって都を発ち、鳳翔府へむかった。
蘇轍と別れて暮らすのは、これがはじめてであった。
――いつの日か、また二人夜の雨音を聞きながら寝床を並べて語り合おう。
別れ際に蘇轍に送った詩に、蘇軾はそう約束した。

出世街道

鳳翔府は、西方にある重要な地であった。
蘇軾は鳳翔府の知事の輔佐を三年務め、治平二年(一〇六五年)に都へ召還された。
――やっと轍にまた会える。
そう喜んだのもつかの間、蘇軾が帰京すると、入れ替わるように蘇轍が大名府の推官として赴任していった。
蘇軾は登聞鼓院判官(苦情対応官)に任じられたが、就任せず、
召試(天子の面前で受ける試問)により直史館(図書館)になった。
これには、つぎのような経緯があった。
英宗皇帝が蘇軾の評判を聞き、知制誥(天子の命令を起草する官)に抜擢しようとした。
執政になるには、知制誥から翰林学士を経るのが通例であった。
つまり、英宗は蘇軾を次代の執政に擢用しようとしたのである。
しかし、宰相の韓琦が、
「蘇軾には大才があり、天下にとって有用な人物です。それをいま急に昇進させれば、
他の官僚に妬まれてしまいましょう。みながかれの任用を望むようになってから起用すれば、
たれも文句を申しますまい」
と、諫言を呈した。
そのかわりとして、召試を実施したのである。
――早急な出世は、かえって身を滅ぼしかねない。
韓琦は、まだ三十歳で先のある蘇軾の身を案じ、大きく育てようとしたのである。
のちに、蘇軾は韓琦の発言を伝え聞き、
「恩徳で人を愛する方だ、というべきであろうな」
と、感嘆した。
ともかくも、史館に任じられたことで、蘇軾は出世街道に乗ったことになる。

重なる不幸

吉いことは、続かないものなのであろうか。
夏に、蘇軾を不幸が襲った。
妻の王弗を喪ったのである。
蘇軾は二十七歳で逝った妻の夭すぎる死を悼んだが、当時は妻の喪に服する慣習がなかった。
かれは悲しみを紛らわすべく、職務に励んだ。
ところが、つぎの年に、父の蘇洵が五十七歳で亡くなった。
蘇軾は職を辞して父と妻の柩を舟にのせて蜀の眉山へ帰郷し、蘇轍とともに喪に服した。
喪が明けると、かれは王弗の従妹である王閏之を妻とした。二十一歳の新婦である。
蘇軾は眉山を発った際、蘇渙の子に家のことを託した。
この後、かれが生きて郷里の土を踏むことはなかった。
服喪中に英宗が崩じ、二十歳の青年皇帝神宗が即位していた。
二度にわたる服喪と新しい任用規定により思うように働けなかった蘇軾は、
――新帝の治世で、風向きが変わろう。
と、期待しつつ、都へのぼった。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧