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中国史人物伝

愛すべき楽天家 蘇東坡(蘇軾)(北宋)(8) 元佑更化

蘇東坡(蘇軾)(7) はこちら>>

元豊七年(1084年)、蘇東坡は足かけ五年に及ぶ黄州流謫を許された。

その翌年、神宗が崩じ、わずか十歳の哲宗が即位し、

祖母(神宗の生母)の宣仁太皇太后が摂政になり、垂簾聴政をはじめた。

王安石の新法に不満をいだいていたかの女は、

新法に反対し、洛陽に隠退していた司馬光を召し出し、朝廷に復帰させた。

これを皮切りに、蘇東坡ら旧法党の面々が続々と中央政界に復帰した。

新法党の苛酷で煩瑣な政治に倦んだ天下の人民は、新政に期待を寄せた。

前年に『資治通鑑』を完成させた司馬光は、この期待にどう応えたのであろうか。

中国史人物伝シリーズ

蘇東坡(蘇軾)(1) 大志
蘇東坡(蘇軾)(2) 科挙
蘇東坡(蘇軾)(3) 出世と訣れ
蘇東坡(蘇軾)(4) 王安石の新法
蘇東坡(蘇軾)(5) 超然
蘇東坡(蘇軾)(6) 筆禍

目次

元佑更化

年が明けると、元佑と改元された。
仁宗の嘉佑年代(一〇五六―六三)に戻す意をこめたのである。
元佑元年(一〇八六年)閏二月、司馬光が宣仁太皇太后の簾前で
知枢密院事(副宰相)の章惇と募役法について論争した。
章惇は司馬光を論破したが、太皇太后の御前で不敬であると弾劾され、罷免された。
かわって、司馬光が尚書左僕射(宰相)兼門下侍郎に任じられた。
この月、蘇東坡は中書舎人に任じられ、詔勅の作成を任されることになった。
このころ、新法党を批判する声が止まなかった。
――新法党の処罰は、配流にとどめる。
蘇東坡が制書にそう記すと、人びとは快哉を叫んだ。

募役法存続をめぐる論争

人民の役務に関して、宋初は、労役(差役)を農民に割り当てる差役法が実施されていた。
差役とは、徭役のことで、差は、割り当てと想えばよいであろう。
差役法の運用が長くなると、民の負担が重くなるなどの弊害が多くなり、制度改革が期待された。
王安石はそれに応え、募役法(免役法)を制定した。
募役法とは、農民に対する労役を免除する代わりに免役銭を徴収し、それをもとに労役を希望する者を募集し、雇銭を給す制度である。
その趣旨はよいが、免役銭を徴収する地方役人が制度を悪用し、過剰に銭を徴収したことが民の害になった。
――募役法をどうするか。
これについては、旧法党内部で意見が割れた。
募役法を全廃すべきと主張する者もいれば、一部は残すべきと主張する者もいたからである。
三月、司馬光は免役銭を全廃し、差役法を復活させるよう訴えた。それに対し、蘇東坡は、
「募役法には、五つの利点がございます」
と、いい、募役法廃止に反対したが、監察御史の王巌叟に、
「募役法には、弊害しかない。利点などあるもんか」
と、吐き棄てられた。
それでも蘇東坡は、
「差役法にも、募役法にも、よいところとよくないところがあります。
募役法のよくないところは、上に銭が集まり、下に銭がなくなることです。
差役法のよくないところは、人民が常に労役に服してしまうため、農業に手が回らず、
役人がそれに便乗して悪事をはたらくことです。害悪の大きさは、同じくらいでしょう」
と、司馬光に募役法の利点を誨え諭そうとした。
「どうすればよかろう」
「両方を補い合えばものごとがうまくいきやすく、徐々に変えていけば人民は混乱しません。
古昔は兵農一体でしたが、秦以降は二つにわかれ、唐代になって完全に募兵制になりました。
以後、民は兵を知らず、兵は農を知りません。農は穀帛を出して兵を養い、兵は命を投げ出して農を守り、
天下はこれを便としております。免役法はこれに似ています。
あなたはすぐにでも免役法をやめて差役法に変えようとなさっておいでですが、
これは募兵をやめて人民を兵にしようとしているようなものです。たやすくはまいりますまい」
蘇東坡がそう意見を述べると、司馬光の容色は怒気を帯びた。
「かつて韓魏公(韓琦)が陝西の義勇軍を徴用したとき、あなたは諫官でしたが、韓公と必死に争われました。
われはあなたからその話をうかがいました。
それなのに、いま、あなたが宰相になれば、われは異見を述べてはならぬのですか」
蘇東坡がそう諫めると、司馬光は謝った。
しかし、司馬光は募役法をやめて差役法を復活させた。

募役法廃止の影響

募役法の廃止は、地方でたいへんな混乱を引き起こした。
その後も、蘇東坡は、
「人びとは、差役法は不便だと申しております。かつての雇役の場合、中等戸の歳出はどれくらいでしょうか。
いまの差役の場合、中等戸の歳出はどれくらいでしょうか。両者を比較すれば、利害は明白になります。
ましてや民が労役に徴用されれば、胥吏はいかなる手段を使ってでも民を食い物にするでしょう。
雇役と比較すれば、苦楽に十倍の差が生じましょう」
と、発言し、差役法復活に異を唱えた。
募役法存続をめぐる論争が、司馬光の死後、
「洛蜀党議」
と、いわれる旧法党の内部抗争に発展していく。

司馬光の死

司馬光の主導により、短期間で新法が全廃された。
かれは新法をすべて否定し、もとに戻した。
これに満足したのか、元佑元年(一〇八六年)九月、司馬光は宰相在任八か月で病死した。
六十八歳であった。
生前人望の高かったかれの死を、貴賤の別なく多くの人びとが哀しみ惜しんだ。
司馬光が亡くなったとき、ちょうど朝廷で慶礼があった。
そのため、慶礼が終わってから、弔問に向かうことになった。
しかし、儒者である程頤(伊川)は、
「哭した日には、歌わないんじゃないのか」
と、『論語』(述而)の一節を引いて反対した。それに対し、蘇東坡が放った、
「そんなもん、田舎者の叔孫通が作った礼だろう」
という何気ないひと言が、ふたりの反目の端緒になってしまった。

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