愛すべき楽天家 蘇東坡(蘇軾)(北宋)(10) 瘴癘
蘇東坡は、保守派に対して公平な批判的意見を述べたため、攻撃の的とされた。
かれを寵愛した宣仁太皇太后も、ここまで批判が相次ぐと庇いきれなくなり、
風よけのために地方へ出すしかなかった。
――地方に出れば、忌憚するものがない。
とでもいわんばかりに、かれは地方官としての実績を挙げていった。
その背景には、弟の蘇轍が尚書右丞(副宰相)になるなど、
政策を遂行しやすい環境にあったこともあろう。
任期が満了して中央政界にもどれば、すぐに批判にさらされ、ふたたび外任を願い出るなど、
かれは有り余る才に恵まれながら世渡りがうまくなく、地方と朝廷を転々として逃れていた。
その頃、地方に貶斥されていた新法党の面々が、ひそかに旧法党の間隙を突こうとしていた。
旧法党の大臣たちは、それとも気づかず、党争にかまけていた。
中国史人物伝シリーズ
蘇東坡(蘇軾)(1) 大志
蘇東坡(蘇軾)(2) 科挙
蘇東坡(蘇軾)(3) 出世と訣れ
蘇東坡(蘇軾)(4) 王安石の新法
蘇東坡(蘇軾)(5) 超然
蘇東坡(蘇軾)(6) 筆禍
蘇東坡(蘇軾)(7) 赤壁賦
蘇東坡(蘇軾)(8) 元佑更化
目次
不 穏
元佑七年(一〇九二年)九月、揚州から召還された蘇東坡は、兵部尚書兼侍読に任じられると、
十一月に礼部尚書(文部大臣)に遷り、端明殿学士と侍読学士を兼ねた。
しかし、宰相の座が手に届くところまできながら、蘇東坡はすぐに外任を願い出た。
希望の赴任地は、江南の越州である。
元祐八年(一〇九三年)八月に、妻の王閏之が四十六歳で都で亡くなった。
五十八歳になったかれにとって、これは堪えたであろう。
かの女は、自分が生んだ子ではない蘇邁に対し、自分が生んだ蘇迨や蘇過と同じように愛情を注ぎ、
分け隔てなく育てあげた賢母であった。
妻の死を悼んでばかりいる状況ではなくなってしまった。
九月に、かれに目をかけてくれた宣仁太皇太后が崩御し、十八歳の哲宗が親政をはじめた。
その月、蘇東坡は、知定州軍州事(定州知事)に任じられた。
――なんということじゃ。
かれは赴任先として江南の越州を希望していたのに、北辺の遼に接する定州への赴任は正直喜べなかった。
「牀を並べて寝ようという約束は、いつ叶うのかなあ」
蘇東坡は、蘇轍にそういい残して任地へむかった。
紹聖紹述
哲宗は父の神宗を尊敬し、祖母が父の新法をことごとく改廃したことが内心不満であった。
それゆえ、親政をはじめると、新法党の章惇を復職させた。
元佑九年(一〇九四年)になると、朝廷内で
「紹述」
という語が、さかんに叫ばれた。
新法を推進した神宗の政治を継承する、という意である。
そのなかで新法党が復権を果たし、范純仁・呂大防・蘇轍ら旧法党の大臣たちが相次いで罷免された。
四月に紹聖と改元した哲宗は、章惇を尚書左僕射兼門下侍郎(宰相)に任じ、政策の転換を命じた。
新政権は真っ先に募役法を復活し、次々に旧法を廃止して新法に戻していった。
しかし、章惇らは王安石のように政治に対して真剣ではなく、旧法党への報復に情熱を注ぐようになった。
呂大防・蘇轍・劉摯・劉安世らが左遷されたほか、物故した司馬光や呂公著さえ弾劾を免れなかった。
瘴癘の地
新法党の弾圧は、蘇東坡にも及んだ。
かれは、閏四月に端明殿学士兼翰林侍読学士の職を剥奪され、知英州軍州事に左遷された。
――頗るこれをもって恨となす。
蘇東坡はこの異動に大いに不満をいだく一方、
――南遷するものそれ速やかに返らんか。
ともいっており、赦されてすぐに戻れることを期待した。
大庾嶺の南にある英州へむかう途中の六月に、蘇軾はさらに苛酷な命令を受けた。
知事であった肩書が、建昌軍司馬恵州安置に貶された。
英州よりもさらに東南にある恵州で無役の司馬として静かにしておれ、ということである。
要は、流罪である。
それでも、五十九歳の蘇東坡は、
――これまでの人生で、渡し場を知っているだけではないぞ。
と、強気をのぞかせた。
蘇東坡は常州に家族を戻し、三子の蘇過と侍妾の王朝雲の二人だけを連れ、
大庾嶺を越え、嶺南へはいった。
嶺南は、瘴癘の地といわれる。瘴癘とは、伝染性の風土病である。
そのような地へ流されるのは、死刑宣告されたと同じであった。
嶺南貶謫
蘇東坡が恵州に到ったのは、紹聖元年(一〇九四年)十月であった。
恵州に着いてみると、心配していたのとは大いに異なり、住みやすいところであった。
一年中暖かく、果物をはじめ食べ物もうまかった。
蘇東坡は茘枝(ライチ)の実を好み、毎日三百個も食べたともいわれ、
――このままずっとここで暮らすのも悪くはない。
と、詩に詠むほど、恵州での生活を楽しんだ。
蘇東坡は、有名な詩人として、吏民を問わず現地の人々の尊崇を集めた。
さらに、広南東路憲司として広州に赴任してきた義兄(姉の夫)の程之才の世話になることができた。
蘇東坡は、はじめて来た地ではないような親しみを恵州に感じ、
――蘇武豈に漠北より還るを知らんや(前漢の蘇武は、匈奴から戻れるとおもわなかった)。
と、詩に詠み、恵州で骨を埋める決意を表明した。
このように、蘇東坡が恵州で詠んだ詩には、罪人の身にありがちの暗さはみられない。
それどころか、のどかな生活を楽しんでいるようにすら感じられる。
維摩経の天女
恵州の暮らしに馴れた蘇軾は、
――この地に長く住むことになるのではないか。
と、おもい、家を新築することにした。
そこに家族を呼び寄せて、王朝雲との生活を楽しもうと意ったのである。
杭州で出会って以来、王朝雲は蘇軾がどのような目に遭ってもかれのそばから離れず、
ともに嶺南までついてきてくれた。
これに蘇東坡が心を揺さぶられなかったはずがない。
ともに仏教に深く帰依した王朝雲を、蘇東坡は、
維摩経の天女
と、呼んでいつくしんだ。
ところが、紹聖三年(一〇九六年)、家が完成する前に、王朝雲が三十四歳で亡くなった。
遺されたかれにできたのは、仏典を書写し、冥福を懸命に祈ることだけであった。
王朝雲を喪って孤独感を強めたのであろう。
蘇東坡はひたすら仏教に救いを求め、仏教への傾倒を強めていった。
六十一歳の蘇東坡は、悲しみを文章にあらわし、写経に打ち込んだ。
筆に王朝雲への悲しみを託し、おのれを落ち着かせようとしたのである。
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