Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//不屈の忠臣 蘇武(前漢)(2) 麒麟閣

中国史人物伝

不屈の忠臣 蘇武(前漢)(2) 麒麟閣

蘇武 (1) はこちら>>

漢の武帝の最盛期に、蘇武は使者として匈奴へ赴いた。

そこで謀叛に巻き込まれ、自殺したものの、死ねなかった。

蘇武の気節に感心した単于は、何とか臣下にしようとするが……

中国史人物伝シリーズ

目次

北 海

「あっぱれなやつじゃ。ますます降伏させたくなったわい」
単于は蘇武を穴倉に幽閉し、飲食を与えなかった。
蘇武は雪が降れば臥して食べ、旃毛(毛織衣の毛)を雪とともに吞みこみ、何日経っても死ななかった。
そこで、単于は臣下に命じて蘇武を北海(バイカル湖とされる)のほとりに移し、雄羊を牧養させ、
「こいつが子を生めば帰してやろう」
と、告げさせた。
このとき、単于は漢の使節を引き離し、それぞれ別の場所で抑留した。
蘇武は、凍てつく湖畔に独り残された。
――われは、ここで果てるか。
かれはそう諦観しかけたが、
――匈奴に屈するわけにはいかぬ。
と、おのれを奮い立たせ、凍土を掘って野ねずみを捕ったり、草の実を食べたりして生き抜いた。
蘇武は節を杖がわりにして羊を牧していたが、いつしか節の飾りに使われた牛の尾がみななくなってしまった。

於靬王

五、六年が経ち、単于の弟である於靬王が北海のほとりへ狩りにきた。
蘇武は手先が器用であったので、於靬王に気に入られ、衣食の差し入れを受けた。
ところが、その三年後に於靬王が亡くなると、蘇武は再び窮乏してしまった。

李 陵

李陵が単于の命を受け、蘇武を訪ねた。
李陵は蘇武が侍中(皇帝に近侍する顧問官)であったときの同僚であったが、匈奴に降り、単于の女を娶り、
右校王に立てられ、厚遇されていた。
李陵は蘇武のために酒宴を催し、
「あなたのご兄弟もご母堂も亡くなりました。あなたの奥方はすでに再婚されたと聞きます。ご子息、ご令嬢はその生死すらわかりません。それなのに、どうしていつまでもこのようにみずから苦しんでおられますのか」
と、降伏を勧めた。しかし、蘇武は、
「われら父子は何の功徳もないのに、陛下の思し召しで、位は列将となり、爵は通侯となりました。陛下のためなら肝脳の地にまみれんといつも願っております。臣が君に仕えるのは、子が父に仕えるようなもの。子として父のために死んでも恨みはございません」
と、拒んだ。
その後も李陵は蘇武と連日連飲し、説得をつづけた。しかし、蘇武は、
「われはとうに死んだつもりです。どうしても降伏させたいのなら、今あなたの目のまえで死なせてください」
と、いい、屈しなかった。
――義士じゃ。
李陵は嘆息し、
「われと衛律の罪はたれ知らずとも、上天に通じて明白です」
と、いい終えるまえに涙がながれて衿をうるおした。
李陵は蘇武の説得をあきらめ、訣別した。
李陵は、妻を通して蘇武を陰助した。
数年が経ち、武帝の崩御が伝わると、李陵はふたたび蘇武を訪ね、訃報を語げた。
蘇武は南に向かって慟哭し、血を吐き、朝な夕な哭いた。

雁 書

昭帝が即位し、数年が経つと漢は匈奴と和親した。
漢が蘇武らの引き渡しを求めたところ、
「蘇武は死んだ」
と、匈奴は欺いた。
ところが、常恵がひそかに漢の使者に会い、具に事情を告げた。
――蘇武らは、まだ生きておったか。
驚嘆した使者に、常恵は、
「天子が上林苑内で狩りをして雁を獲ましたが、その足に帛書が結ばれておりました。
それには、蘇武らは沢中にいる、と書かれてありました。単于にそう申しあげてください」
と、入れ知恵した(これが、「雁書」の起源)。
使者は大喜びし、常恵にいわれた通りにして単于を責めた。
単于は左右の者を視て驚き、
「蘇武らは、まだ生きておる」
と、打ち明け、漢の使者に詫びた。
これでようやく蘇武の帰還がかなった。

帰 漢

単于は、蘇武の属官を召し集めた。
蘇武に随って帰還したのは、常恵ら九人であった。
このとき蘇武は六十歳くらいで、髪も鬚もすっかり白くなっていた。
十九年の抑留を耐え抜き、節を曲げなかったかれは、始元六年(紀元前八一年)に長安に戻り、
典属国(帰服した異民族を掌る官)に任じられた。
翌年、上官桀らが昭帝を廃して燕王を擁立しようと謀叛した。
これに蘇武の子の蘇元が連座して死に、蘇武は免官となった。
しかし、六年後に宣帝が即位すると、風向きが変わった。
蘇武は、宣帝を擁立した功により関内侯となり、宣帝の信頼が篤い張安世(張湯の子)の
推薦で典属国に復帰した。
宣帝は、高節の老臣である蘇武を尊重し、寵遇した。
宣帝は、蘇武が年老いて、子が政変で死んだことを憐れみ、
「そなたは久しく匈奴におったゆえ、ほかに子はあるまいな」
と、側近に問わせた。
「匈奴にいたときに娶った胡人の妻が通国という子を産み、音信があります。
どうか引き取らせていただきとうございます」
蘇武がそう願い出ると、宣帝は喜んで許可し、蘇通国を取り立てて郎(近侍の臣)に任じた。
漢王朝を中興したとされる宣帝の治世のもとで、蘇武は穏やかな晩年を送れたであろう。
蘇武は、神爵二年(紀元前六〇年)に亡くなった。八十余歳であったという。

麒麟閣

甘露三年(紀元前五一年)、宣帝は自らを輔佐してくれた功臣を懐かしみ、
画家に命じてかれらの肖像画を描かせ、未央宮内の麒麟閣に掲げさせた。
「麒麟閣十一功臣」
そう呼ばれる十一人の功臣の画のなかに、蘇武の像が描かれていた。
後世、人臣としての栄華を極めることを、
「麒麟閣に画が掲げられる」
というようになり、蘇武の節を貫き通した行動は後世の模範とされた。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧