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中国史人物伝

生まれ出た時代を間違えた⁉ 乱世にあって清談にふけり保身に意を砕いた名家出の大臣 王衍(西晋)(2) 保身の果てに

王衍(1)はこちら>>

名家の出で、器量よし、頭もよしで声望もあった王衍になかったものは、

あるいは運であったかもしれない。

ほかになにか大事なものが欠けてなかったか。

平時であれば、かれは賢人として無難に過ごせたかもしれない。

が、乱世にあって、かれは清談にのめりこんだ。

そうすることで、現実から逃れ、無為に過ごしたかったのかもしれない。

だが、衆望がかれをそうさせなかった。

漢軍に敗れて捕虜になり、責任逃れに終止した王衍の弁解は、

漢の将軍石勒を怒らせ、惨めな最期を迎えてしまう。

王衍の最期を想うとき、昭和天皇がマッカーサー元帥にされたとされる

「敗戦に至った戦争の―中略―責任はすべて私にある。

文武百官―中略―には責任がない。

私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする」(藤田尚徳『侍従長の回想』

という発言を憶いだす。

この発言は、いたくマッカーサー元帥を感動させたらしい。

王衍の国を背負う覚悟は、いかばかりであったろうか。

結局は、”事なかれ主義”でしかなかったということか。

中国史人物伝シリーズ

目次

八王の乱

政 変

王衍は、北軍中候、中領軍(ともに中軍統括官)、尚書令(秘書官長)を歴任した。
かれの女は、太子遹の妃となった。
しかし、太子が賈皇后に誣告されると、王衍は禍が降りかかるのを懼れ、離婚させた。
ところが、永康元年(三〇〇年)に趙王の司馬倫や斉王の司馬冏が挙兵し、
賈皇后が廃されると、王衍は女を太子と離婚させた件で弾劾され、禁固となった。
翌年、司馬倫が、恵帝から帝位を奪った。
王衍は、ふだんから司馬倫の人となりを軽んじていた。
そのため、かれは狂ったふりをして婢を斬り、司馬倫との接触を避けた。
のちに司馬倫が誅殺され、恵帝が復位すると、王衍は河南尹(都知事)を拝命し、尚書に転じ、
さらに中書令(詔勅起草官)となった。
司馬冏が、朝廷の主宰者になった。
司馬冏には恵帝を復位させた功績があったが、専権して放縦にふるまった。
公卿はみな司馬冏に拝礼したが、王衍は長揖するだけであった。
――こりゃあ、長くつづかんじゃろう。
そう見切った王衍は、ほどなく、病と称して辞職した。

保 身

永寧二年(三〇二年)、長沙王の司馬乂が司馬冏を誅殺し、政権が成都王の司馬穎に移った。
王衍は司馬穎から中軍師に任じられ、さらに尚書僕射(秘書官副長)、吏部(人事)を領し、
のち、尚書令、司空(副首相)、司徒(首相)を拝命した。
政変が頻繁に起こったため、輔政の重責がありながら、王衍は国家の経営よりも保身に意を砕いた。
光煕元年(三〇六年)に、東海王の司馬越が司馬穎を破り、政柄を握った。
ほどなく恵帝が亡くなり、司馬越が懐帝(司馬熾)を擁立し、八王の乱が終熄した。
「中国はすでに乱れており、方伯(地方の長官)を頼るしかありません。
文武を兼ね備えた人物を任用すべきです」
王衍は、司馬越にむかってそう説いた。
その結果、弟の王澄が荊州刺史に、族弟の王敦が青州刺史になった。
「荊州には長江と漢水があり、青州は海を背にしている。
ふたりが朝廷の外におり、われがここに留まれば、三窟(三つの隠れ穴)とするのに十分じゃ」
王衍は、王澄と王敦にそういって送り出した。いかにもかれらしい発言といえよう。

洛陽防衛

晋が内乱で混乱する最中、匈奴の劉淵が華北で自立して漢を建て、中原へ勢力を伸ばした。
永嘉二年(三〇八年)、漢の将軍王弥が洛陽に攻めてくると、
王衍は都督征討諸軍事・持節・仮黄鉞に任じられ、これを防ぐよう命じられた。
王衍は、前将軍の曹武や左衛将軍の王景らに賊軍を迎撃させた。
曹武らは賊軍を撃退し、輜重を獲た。
王衍はその功により、尚書令のまま太尉(国防長官)に遷任した。
さらに、武陵侯に封じられたが、辞退して受けなかった。
洛陽は、なおも危機にさらされた。
多くの人が遷都をして難を避けようとするなか、王衍は車と牛を売り、民を安心させた。
ところが、漢の来襲に結束して対抗しなければならないはずの晋の朝廷で、
司馬越と懐帝の反目が表面化してしまった。

東 遷

司馬越の専横をこころよくおもわない懐帝は、
永嘉五年(三一一年)に、司馬越と対立していた苟晞に密詔を出し、司馬越を討伐するよう命じた。
司馬越は、苟晞を討伐する兵を挙げた。
それに従った王衍は、司馬越から太傅軍司(軍師)に任じられ、大軍の指揮をまかされた。
ほどなくして、司馬越が病を得て憤死すると、王衍は諸将から元帥に推された。
――われには、荷が重い。
王衍は懼れ、
「われは若いときから官になる気はなく、牒(辞令)に従って異動するうちに、こうなってしもうた。
今日の事態に、こんな非才で対処できようか」
と、遁辞を構え、辞退した。
帥将が決まらないまま、軍馬は司馬越の柩を奉じて東海国へむかった。
ところが、その途次を漢の石勒軍に襲われ、捕えられてしまった。

圧 死

敗軍の将となった王衍は、石勒と会見し、敗因についてたずねられた。
「計は己に在らず」
「はは、おもしろいご仁じゃな」
石勒は、王衍の応えをきいておおいに喜び、王衍と日がな語りあった。
「われは、少しも政事に関与しておりませんでした」
石勒から悪感情をむけられていないと感じた王衍は、責任逃れに終止したばかりか、あげくには、
「尊号を称されませ」
と、石勒に勧めた。
いのちばかりは助けてもらおうとおもって発した余計なひと言が、石勒の怒りに火をつけた。
「君の名は四海を覆い、重任を受け、少壮から朝廷に仕え、白首(老年)に至った。
それなのに、どうして世事に関与していないなどと申すんじゃ。天下を破壊したのは、君の罪じゃ」
石勒はそういい放つと、左右に命じて王衍を退出させた。
――もう、終わりじゃ。
王衍は、肩を落とした。
夜になると、突如として轟音が鳴り響きだした。
「なにごとか――」
王衍がそう叫びながら外に出ると、牆(塀)がおのれめがけて倒れこんできた。
「ああ、古人に及ばないにせよ、浮薄や虚無にふけらなければ、
勠力して天下を匡し、今日のようにはならなかったろうに」
王衍は死を悟り、五十六年の生涯をふりかえってそう悔悟しながら、牆に圧し潰されて世を去った。

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