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中国史人物伝

生まれ出た時代を間違えた⁉ 乱世にあって清談にふけり保身に意を砕いた名家出の大臣 王衍(西晋)(1) 一世龍門

『三国史』の主人公ともいうべき曹操の子 曹丕が開いた魏王朝は、

藩屏とすべき皇族を、帝位をうかがう存在として危険視し、政権から遠ざけた。

その結果、司馬氏が実権を握るようになると、

それに対抗して皇帝を扶けられる皇族がなかった。

司馬炎(武帝)が建てた晋王朝は、それを教訓に、

皇族に強大な権力を与え、皇帝を輔翼させようとした。

これが晋王朝弱体化の端緒となるのであるから、先のことは本当にわからない。

武帝が亡くなり、暗愚な恵帝が即位したとたん、司馬一族の諸王が、

「八王の乱」

と、よばれる権力争いをはじめた。

この内乱で、諸王は匈奴ら北方異民族を兵力として利用した。

戦いつづけるうちにおのれの強さを自覚するようになった北方異民族は、

華北に進出し、晋を凌駕するまでに至った。

衰えゆく晋朝にあって、三公の高位にあった

王衍(あざなは夷甫)(256-311)

は、朝野の輿望を担ったものの、

混乱に陥った晋を立て直すことができず、漢の将軍石勒に捕まり、圧殺された。

王衍の死は、中原で長きにわたり培われた純粋な漢民族の文化の終焉を象徴づけた。

中国史人物伝シリーズ

目次

寧馨児

王衍は名門貴族である琅邪王氏に生まれ、端正な顔つきをもち、風姿は穏やかで上品であった。
王戎は幼童のころ、竹林の七賢のひとりとして知られる山濤を訪ねたことがあった。
王衍をしきりに感心して称めた山濤は、王衍が帰るのを見送りながら、
「こんな神童が、どんな親から生まれたんじゃろう。
しかし、天下の人民を誤らせるのは、案外、こんな子かもしれんて」
と、そのうしろすがたに投げかけた。
泰始五年(二六九年)、平北将軍であった父の王乂が、都に使者を発したものの、沙汰がなかった。
このとき、十四歳であった王衍は、尚書僕射の羊祜を訪ね、事状をとても瞭然と説明した。
高徳で名声もあった羊祜に対し、王衍は幼年ながら物怖じするようすをみせなかったため、
ひとびとはみな、かれをすぐれていると評した。
楊皇后の父である楊駿がそれを耳にして、女を王衍に娶わせようとした。
王衍はその話をきき、
――あんなやつの婿になど、なりとうはない。
と、恥じ、狂ったふりをして免れた。
晋の武帝(司馬炎)は王衍の名をきいて、
「夷甫(王衍)は、いまでいうとたれに比べられようか」
と、王衍のいとこで、竹林の七賢のひとりでもある王戎に諮うたところ、
「たれとも比べられません。古人のなかから求めるべきです」
と、返された。

仕 官

泰始八年(二七二年)、武帝が辺境を鎮めることができる奇才を推挙するよう詔を下した。
王衍は縦横(外交)の術をよく論じたので、尚書の盧欽から遼東太守に推挙された。
しかし、王衍は赴任しなかった。
以後、かれは世事を論じなくなり、玄虚(老荘思想)のみを語るようになった。
王衍は、宴席で族人から怒られ、樏(はち)で顔を殴られたことがあった。
かれはなにもいわず、族弟の王導を連れてその場を去った。
しかし、気持ちがおさまらず、車中で鏡をみながら、
「わが眼光をみよ、牛の背の上にある」
と、王導にいった。
王乂が亡くなると、王衍は手厚く葬った。
しかし、父が他人に貸しつけていた債権の取り立てをしなかった。
そのため、数年のうちに家財が尽き、王衍は家を出て洛陽城外の西にある田園へ移り住んだ。
のちに王衍は太子舎人(家来)となり、尚書郎(秘書官)に遷任したのち、元城の県令に任じられた。
そこでは日がな清談に明け暮れていたが、県令の政務もこなしていた。
その後、朝廷に戻り、太子中庶子(側近)・黄門侍郎(勅命を伝える官)となった。

口中の雌黄

王衍は大きな才能と美貌があり、頭が切れ、いつもおのれを孔子の弟子である子貢になぞらえていた。
そのうえ、名声がとても高く、当時の世論を動かすほどであった。
王衍は玄言(道教の教義)に長け、もっぱら老荘の論議に興じた。
表現に不適切なところがあれば、即座に変えたので、
「口中の雌黄」
と、世人から揶揄された。
雌黄とは、黄色の顔料である。
中国では書物に黄色の紙を使い、訂正箇所に同色の雌黄を塗った。
よって、口中の雌黄とは、しきりにことばを変えてごまかす、という意味である。
「一世龍門」
朝野を問わずそうよばれた王衍は、顕職を歴任し、後進はみなかれを敬慕し、みならった。
王衍が選挙され、朝廷に出仕すると、朝臣らはみなかれを第一とした。
王衍は名門出で矜り高かったが、浮薄で、発言が無責任であった。
みなが王衍をまねたため、それが当時の流行となってしまった。
王衍が幼児を亡くしたとき、山濤の子である山簡が弔問に訪れた。
「まだ幼児でしたのに、どうしてそんなに悲しまれるのですか」
山簡からそう訊かれ、
「聖人は情を忘れ、小人は情をもつにもいたらない。それゆえ、われのようなものに情が集まるんじゃ」
と、王衍は返した。
山簡は感服し、あらためて亡くなった幼児のために慟哭した。

阿堵物

王衍の妻の郭氏は恵帝の賈皇后の親類で、皇后の権勢をかさに剛愎かつ貪戻で、
財物をかき集め、他人のことに口だしするのを好んだ。
王衍は妻に悩まされたものの、やめさせることができなかった。
王衍と同郷であった幽州刺史の李陽は、都の大俠でもあったので、郭氏はかれのことを恐れ憚っていた。
「あんたにいけないといっているのはわれだけじゃない、李陽もじゃ」
王衍が郭氏にそういいふくめると、郭氏の恣行が少しはおさまった。
王衍は、郭氏の強欲をにくみ、
「銭」
という語を、けっして口にしなかった。
そんな夫を試そうとした郭氏は、
王衍が眠っているときに、婢に命じて牀(寝台)を銭で囲ませ、出られないようにさせた。
王衍が朝に起きて銭を目にすると、
「阿堵物(こんなもの)を、のかしなさい」
と、婢に命じた。
以後、金銭のことを、
「阿堵物」
ともよぶようになった。

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