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中国史人物伝

乱世に折衝力を発揮した蘇秦の分身? 蘇代(戦国時代)(2) 漁夫の利

蘇代(1)はこちら>>

1973年に湖南省長沙市の馬王堆漢墓より出土した帛書の『戦国縦横家書』には、

蘇秦や張儀をはじめとする縦横家の言行などが記録され、

これまでどの古籍にも記載がなかった戦国時代の史実が明らかになった。

これにより、史書の誤りが修正されていった。

たとえば、『史記』で紀元前四世紀末と記されていた蘇秦の事跡が、

『戦国縦横家書』によれば、その4、50年後の紀元前3世紀のことであり、

蘇秦の青年期に、張儀はすでに晩年にさしかかっていたという。

『戦国縦横家書』の記事によれば、蘇秦は燕の昭王と通じ、

斉のために献策するとみせておきながら斉を孤立させようとしたふしがあるらしく、

『戦国策』で、蘇代の事績とされていた話と類似しているようにも感じられる。

中国史人物伝シリーズ

目次

斉秦互帝

紀元前二八八年、秦の昭襄王が西帝を称し、斉の湣王に帝号を称するよう勧めてきた。
「いかがいたせばよかろうか」
湣王からそう諮われた蘇代は、
「お聴きいれあそばされなければ、秦に恨まれ、お聴きいれあそばされれば、天下に恨まれましょう。
そこで、ここはひとまず、秦の申しいれをお聴きいれあそばされて秦の顔を立てておきまして、
一方で帝号を称さないでおきますれば、天下にいいわけできましょう」
と、提案した。
湣王がこれを容れて帝号を称さなかったため、昭襄王は帝号を称するのをやめた。

討 斉

紀元前二八六年、斉が宋を伐ち、宋は危急に陥った。
――燕が斉に与しないようにせねば。
蘇代はそうおもい、燕の昭王に書翰を送った。
「万乗の君でありながら、斉に人質をいれておれば、名声がさがり、軽くみられます。
斉に仕え、これを助けて宋を伐てば、民は疲れ、国力がすり減ります。
宋を破り、楚の淮北を侵略して、斉を肥え太らせれば、讎が強くなり、国をそこないます。
これら三つは、いずれも燕国の大失敗です。
もし大王が、禍を転じて福となし、失敗を成功に変えようとお望みでしたら、
斉を覇者として尊ばれ、秦と絶交するようにしむけるのがよいでしょう。
五世にわたって諸侯の盟主であったのに、斉の盟下になるわけですから、秦は斉を苦しめようとするでしょう。
そうなれば、大王は弁士を遣わして、秦王にこう説かせませ。
大王はこの際、燕と趙をお味方になさいませ。
韓や魏が従わなければ秦が伐ち、斉が従わなければ燕と趙が伐つようにすれば、
天下に従わないものなどおりしまょうや。
そうなってから、韓と魏を駆りたてて斉を伐たせ、宋と楚の淮北を返すよう要求させます。
大王が燕や趙をお味方になされば、燕も趙も斉を見棄てましょう。
さもないと、斉の覇業はきっと成就してしまいますぞ。
そうなれば、大王の名声はさがり、お国は危うくなりましょう。これは智者のすることではございません、と。
秦と親交して斉を伐つのは、正当な利益であり、正当な利益が得られるよう務めるのは聖王の事業です」
すると、蘇代は昭王から招かれて燕へいった。
「先王がかつて蘇秦に目をかけておられたが、子之の乱が起こり、蘇氏は燕から去ってしまった。
斉に報復したいのなら、蘇氏でなければむりであろう」
蘇代は昭王からそう話しかけられて、斉の攻略について諮問を受けた。
楽毅が斉を滅亡寸前まで追い込んだのは、その二年後のことであった。

合従策

燕の昭王が、秦に招かれた。
昭王がそれに応じようとすると、蘇代が諫止の言を揚げた。
「楚が枳を得ながら都を失い、斉が宋を得ながら亡んだのは、なにゆえでしょうか。
それは、功ある者は、秦にとって讎になるからです。
秦が天下を取ろうとするのは、義をおこなうためではなく、暴虐だからです。
秦は他国を攻めては、その地をわがものにしてきました。
楚しかり、韓しかり、魏しかり、宋しかり、斉しかり、燕や趙もそうでした。
秦軍に殺された三晋(韓・魏・趙)の民は数百万人にものぼり、晋国の禍は、三晋の半ばにおよびます。
秦の禍は、これほど大きいのです。
それなのに、燕や趙から秦へいった遊説者は、みな争って秦に仕えるよう燕王や趙王に説いております。
これが、臣が大いに患えていることなのです」
「あいわかった」
昭王は蘇代の言を容れて、秦への訪問をとりやめた。
蘇代は、ふたたび燕で重用された。
燕は蘇秦のときと同様に、諸侯と合従しようとした。
蘇代も蘇厲も天寿を全うし、名は天下になりひびいた。

漁夫の利

趙が、燕を伐とうとした。
――いまは、そんなことをしている場合じゃない。
そのおもいで蘇代は邯鄲へゆき、趙の恵文王に謁見し、
「いま、臣がこちらへ参りますとき、易水を通りました」
と、切りだして、つぎのような話をした(鷸は趙、蚌は燕の譬喩)。

蚌(はまぐり)が岸にあがり、陽にあたっていた。
そこに、鷸(しぎ)が、蚌の肉をついばみにやってきた。
すると、蚌は殻を閉じて、鷸のくちばしをはさんでしまった。
「今日、雨が降らず、明日も降らなければ、死んだ蚌ができあがるぞ」
と、鷸がいえば、蚌も負けじと、
「今日、出してやらず、明日も出してやらなければ、死んだ鷸ができあがるぞ」
と、いい返し、どちらもけっして放さなかった。
そこに漁師がやってきて、蚌と鷸をまとめて擒えてしまった。

蘇代はそこまで話してから、
「いま、趙は燕を伐とうとしておられますが、燕と趙が長いあいだ戦い、大衆が疲弊してしまえば、
強秦が漁師になるんじゃないかと、臣は恐れてございます。どうか大王にはよくお考えくださいますよう」
と、説いた。これをきいて恵文王は、
「なるほどな」
と、応じ、燕討伐を中止した。
蘇代の口から紡ぎだされたこの譬喩から、
「蚌鷸の争い」
あるいは
「漁夫の利」
ということばが生まれた。
この故事は、海を超えて東のかた日本に伝わり、
「たがいに争っている隙に、第三者が労せずに利益を横取りすること」
のたとえとして、二千三百年ほど経った現在でもなお使われている。

雑 感

蘇代は燕と斉のあいだを往復し、斉に仕えた弟の蘇厲とともに六国の合従に努めた。
昭王に斉攻伐を勧めたことをおもえば、燕のためにはたらき、
燕と利益が相反する斉へは、その利益をはかるようみせかけながら、
他国とのあいだに間隙をつくろうとしむけていたのであろう。
子之の乱にがつけ入り、五旬にして制圧しため、一時に避けた。
蘇代の器量は、六国合従を成し遂げ、その盟主になった兄の蘇秦に劣るといわざるをえないが、
こと折衝においては、蘇秦を凌駕する才能を発揮したようである。
近年では、蘇秦は蘇代や蘇厲の弟で、紀元前300年前後に活躍したとする説もあり、
これは従来蘇代が活躍したとされる時期に相当する。
蘇代の伝記を、蘇秦のものとおもってみれば、意外な発見があるかもしれない。

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