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中国史人物伝

桀宋と称された暴君 最初で最後の宋王 偃(戦国時代)

宋は古昔の商(殷)王の子孫が封じられた国であり、

大国とはいえないものの、春秋時代には文化が栄え、商業が発達した。

その豊かさを背景に、襄公が諸侯を従えて覇者の座を競ったり

宰相の華元や向戌諸侯を集めて平和同盟を成立させるなど、

一定の存在感を示した。

ところが、戦国時代になると、大国のあいだにはさまれて存在感が薄れていった。

衰えゆく宋にあって、ひとり気を吐いた君主がいた。

偃 (-前286)

かれは国力にみあわぬ外征で版図を拡げ、覇者をめざした反面、

数多の敵をつくって国を滅ぼされてしまった。

桀宋

そう称された偃は、酒色に淫溺し、暴虐なふるまいが多かったとされる。

商王朝最後の王となった紂王は、

――酒色におぼれた暴君である。

と、周代以降に喧伝された。

しかし、甲骨文の研究が進んだ現在では、実は紂王は英明な王であるという説もある。

宋の最初で最後の王となった偃については、どうであろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

国君の座

『史記』宋微子世家によれば、偃は紀元前四世紀初めの宋の君主であった辟公の子である。
辟公の死後、兄の剔成が君主の位を継いだ。
四十年以上君主の座にありながら、現状維持に汲々とし、国威を発揚できない兄に、
偃はもどかしい想いを抱きつづけた。
――それならば。
血の気の多い偃は、紀元前三二九年に剔成を攻めて追放し、みずから君主となった。

勁 宋

偃が君主になったころ、各国の君主が相次いで王号を称えだした。
――われの祖は、中華の王であったんじゃ。
おのれの血統を誇る偃は、
――われこそ覇者たらん。
と、念い、紀元前三一八年に王号を称えた。
「王であるからには、不庭の輩を伐たねばならぬ」
偃はそういって、東方の大国である斉に狙いを定めた。
斉が、出奔した剔成をかくまっていたからである。
偃は軍旅を催し、斉への侵攻を皮切りに大規模な軍事活動を展開した。
東は斉軍を破って五城を取り、南は楚軍を破って三百里の地を攻め取り、西は魏軍を破った。
その程度の戦果では厭きたらない偃は、
「わが力は、まだこんなものではない」
と、いって武装を解かず、斉の息がかかった滕を滅ぼし、薛を伐ち、淮北の地を攻め取った。
「どいつもこいつも弱くて話にならんわ」
偃は覇者に近づいたと自認し、ますます自信をつけた。
周辺諸国を敵に回してしまった偃であるが、版図を接しない西方の大国・秦とは戈矛を交えなかった。
後年に范雎が実践した遠交近攻策に近いと考えれば、かれの外交感覚は非凡ではなかったといえよう。

桀 宋

偃は酒と女に目がなく、群臣に美女を妻にしていると耳にするたびに、つぎつぎに奪い取った。
それだけではない。
偃は韋嚢(なめし革の袋)に血を満たして、これを上に懸けて矢で射、
「天を射る」
と、称すと、地を笞打ち、社稷を斬って焚滅して、
「天下の鬼神を威服させたぞ」
と、得意げにはしゃいだ。
また、他国の王侯に肖た木像を造らせ、こづいて愚弄した。
さらに、国老を罵り、傴僂(せむし)の背を剖き、早朝に川を渡渉する者の脛を断ったりした。
むろん、偃を諫める者もいた。
しかし、偃はその者をすぐに射殺した。
あまりの奇狂ぶりに、国人は大いに驚駭し、
桀宋
と、諸侯からあだなされるようになった。
桀は古昔の夏王朝の最後の王で、末喜(妹喜)という美女に溺れ、
かの女に気に入られようと池を酒で満たして船を浮かべ、肉を山のように盛り、
肉山脯林と呼ばれた豪華な宴会を連日のように催しつづけた挙句、
国を傾け、商の湯王に滅ぼされた暴君とされる。
宋の前身といえる商王朝には、桀とならぶ暴君とされる紂王がいた。
それなのに、偃を紂ではなく桀になぞらえたのはどういうことであろうか。

破 滅

宋に遺恨のある斉の湣王は、紀元前二八六年、
「宋は紂王のようなことをしている。誅すべし」
と、かつて宋に敗れた魏や楚と誘い合わせて宋を伐った。
四十三年にも及んだ偃の暴政に耐えきれなくなった人民は離散し、城の守備を放棄した。
大軍が城内になだれこみ、その混乱の最中に偃は殺された。
父辟公の末年に生まれたとしても、偃は八十五年以上は生きたであろう。
相当な長寿である。
偃の死により、八百年以上続いた宋は滅亡した。
その領地は、三国で三分した。

秩序がなく混沌とした戦国時代は、盛衰が目まぐるしく入れ替わる。
宋を滅ぼして得意になった斉の湣王の栄華もまた短かった。
二年後に燕の楽毅率いる五か国の連合軍に攻め込まれて大敗し、
身は死し、国は滅亡寸前にまで追い込まれてしまったのである。

令民安楽

偃の奇狂な所業は、多くの宋の先人の行蔵とあまりにも乖離している。
そのため、本当に偃がしたのか懐疑してしまうが、どうであろうか。
偃は、康王ともいわれる。
謚号は子孫が贈るものであるから、滅亡した最後の君主にはふつうはないはずである。
おそらく、謚したのは、宋公室の子孫あるいは宋の遺臣であろう。
『逸周書』謚法解によれば、
――安楽し、民を撫するを、康という。
あるいは
――民を安楽せしむるを、康という。
などとある。
このような諡号をもつ君主が、暴虐で民心を離したであろうか。

宋人は愚者か?

戦場でも礼を貫いた襄公をはじめ、宋人はものがたく古礼を重んじた。
それなのに、なかなか好結果につながらない。
思考にどこか欠けたところがあったのであろうか。
そのあたりが、「宋襄の仁」として嘲られ、宋人は愚者であるとされたゆえんなのかもしれない。
童謡「待ちぼうけ」のもとになった「守株」の話を、ご存知であろうか。
農夫が畑を耕していると、兎が飛び出し、木の切り株に頭をぶつけて死んだ。
それに味を占めた農夫は、鋤を捨てて毎日木の株を見守りつつ兎を待ったが、まったく出てこなかった。
以上は、『韓非子』(五蠹)に収められている。
他にも『孟子』(公孫丑上)には、苗の生長が遅いのを心配して株を引っ張って枯らせてしまった話があり、
『荘子』(逍遥游)には、
章甫の冠(商代の冠)を購入し、断髪文身で冠を被らない南方の越へ行って売りさばこうとしたものの、
一つも売れなかった話がある。
こうした愚行の主人公は、いずれも宋人である。
どうして宋人には悲話がまつわるのであろうか。

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