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中国史人物伝

流転の才媛 蔡文姫(三国 魏)(3) 建安文壇

蔡文姫 (1) はこちら>>

蔡文姫 (2) はこちら>>

望郷と慈愛匈奴での暮らしになじめない蔡文姫にとって、望郷の念だけが拠り所であった。

そんななか、左賢王豹の子を産み、愛情を注いで育てた。

漢から使者がきて、十二年の抑留から解放され、帰国が許された。

積年の望みが叶ったのに、まだ幼い子供達のことを思えば素直に喜べなかった。

かの女は匈奴に子供達を残し、後ろ髪を引かれる思いで帰国の途に就いた。

中国史人物伝シリーズ

目次

惆 悵

故郷に戻れたものの、子供を連れてくることはできなかった。
心は落ち着かず、虚無感に苛まれた。
辛さや苦しみはまったく和らぐことがない。
子どもたちを夢でみない日などない。
こんどいつ会えるのであろうか。
夢の中で子どもたちと手をとりあい喜んだり悲しんだりするが、目が覚めると心が疼く。
子どもと別れた悲しみは耐えがたい。
気を紛らせようと琴をかき鳴らせば、心が痛む。
旧い怨みが消え、新たな怨みが生まれた。
――なにゆえこんな目に遭わねばならぬのか。
蔡文姫は地に頭を叩きつけ、顔を挙げて天に訴えた。

文学サロン

蔡文姫が漢に帰国できたのは、曹操の強い意望によるものであった。
献帝を擁し、袁紹を破って河北を平定し、南征を催して天下を統一せんと意気込むかれは、
じつは文芸にも秀でていて、文才ある人物を集めていた。
――蔡伯喈の女が、匈奴にいる。
才人を好むかれの目は、匈奴にも向けられた。
正史には、曹操は蔡邕と親交があったとの記載があるが、おそらくかれらには親交がなかったであろう。
むろん曹操は蔡邕の名を知っており、蔡文姫の文才を伝え知っていたとおぼしい。
――蔡伯喈ほどの者に後胤がないとは……。
と、憐れんだ曹操は、南匈奴に使者を遣り、黄金と璧玉で蔡文姫をもらい受けた。
これは、文芸にも通じた多才多芸な曹操ならではの処断であろう。
蔡文姫という類まれな文才を匈奴に埋もれさせずに活用できる英断であり、
他の群雄はそこまで配慮できないであろう。
曹操は、人妻を好むという。
――わたしは、曹操さまの慰み者にされるのであろうか。
蔡文姫の脳裡に、そのような不安がよぎった。
匈奴に拉致されたとき二十歳くらいであったかの女は、このとき三十歳を超えていた。
若い女人が妍芳を競う後宮に入れられては、寂寥感が増すばかりであろう。
ところが、蔡文姫の結婚相手として曹操が択んだのは、董祀という人物である。
――さすがに後宮に入れられることはなかったか。
と、蔡文姫は胸をなでおろした。
董祀は、蔡文姫とおなじ陳留郡出身である。
ここにも、曹操の細やかな気くばりが感じられる。
以後、蔡文姫は、曹操が形成する建安文学の一翼を担うことになる。

助 命

蔡文姫の三人目の夫となった董祀は、屯田都尉(辺境の地の県長)になった。
しかし、その後に法を犯し、死刑を宣告された。
――刑を取りやめてもらわねば。
蔡文姫は、居ても立ってもいられずに曹操に謁見を求めた。
その時、公卿、名士や遠方からの使者らで堂上は人であふれかえっていた。
曹操は、賓客たちに告げた。
「蔡伯喈の女がきている。いま、諸君にお目にかけよう」
蔡文姫は蓬髪裸足で堂下に進み出て、叩頭して夫の罪を詫びた。
澄んだ声で、みごとな弁辞を吐き、内容は悲哀に満ちていた。
満座は粛然となり、姿勢を改めた。
「まことに気の毒なことをしてしもうた。じゃが、令状を出してしもうたからには、どうしようもなかろうて」
曹操は、そういって蔡文姫を慰撫した。
だが、蔡文姫は負けてはいなかった。
「あなたさまの厩舎には馬が一万匹もおり、数多の虎士(近衛兵)がおられます。
死にかけの生命を救うのに、騎兵を惜しまれるのでしょうか」
かの女は、負けじとそう言い返した。
曹操はその言に感じ入り、使者を出して董祀の罪を赦した。

強 記

早朝の寒い時に、曹操は蔡文姫に頭巾と履物を与えた。そのついでに、
「あなたの家には古書がたくさんあったと聞く。まだ憶えておられるかな」
と、たずねた。
「昔、亡父から四千巻あまりの書をもらいましたが、流浪し塗炭の苦しみを味わううちになくなりました。
いま憶えているのは、わずか四百篇くらいにすぎません」
「では、吏人を十人夫人に属けて、書き写させよう」
「わたしは男女の区別は厳然にすべきと聞いております。
それに、『礼記』にも男女は親しく物を受け渡してはならぬ、といいます。
紙と筆をいただけますれば、仰せの通りにいたします」
蔡文姫は記憶しているものをすべて書き写し、曹操に献呈したが、一字も誤りがなかった。

蔡文姫は、戦乱で家族が離れ離れになった悲しみを思い、悲憤のあまり『悲憤詩』を作ったといわれる。
また、匈奴にいるときに『胡笳十八拍』を作ったともいわれる(笳は、葦の葉で作った笛)。
これらが本当に蔡文姫の作であったかどうかは、今もって定かではない。

蔡邕の血胤

蔡邕の血胤は、絶えていなかった。
晋の名将である羊祜の母は、蔡邕の女であった。
それが蔡文姫の姉妹なのか、それともかの女自身であったのか。
『太平御覧』に引く『三十国春秋』に、つぎのような逸話がある。
羊祜が成人に達するまえに父を喪い、伯母に仕えた。
「あの子は顔回みたいじゃ。諸葛孔明に次ぐであろう」
かの女はそういって、甥を称めたという。
顔回は孔子の弟子で、徳行にすぐれ、師に最も愛された人物である。
話の真偽はさておき、羊祜を養育したのが蔡文姫である可能性はある。
羊祜の生年は、魏の黄初二年(二二一年)である。
仮に、羊祜の母が蔡邕の晩年に生まれたとすると、三十歳を過ぎてから羊祜を生んだことになる。
一方、羊祜の母が蔡文姫であるとすれば、四十歳を超えて子を産んだことになるが、どうであろうか。
いずれにせよ、蔡邕の才能は孫に受け継がれたようである。

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