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中国史人物伝

前漢で最も長く宰相を務めた 張蒼(前漢)百歳超の長寿を得た晩年の滋養法とは?

日本で最も長く総理大臣(首相)を務めた人物は、安倍晋三氏である(令和5年時点)。

では、前漢で最も長く宰相を務めた人物は?

そう問われて、

張蒼(?-前152)

の名が出てくれば、古代中国史にかなり明るいといえよう。

張蒼は、文帝の時に15年ものあいだ、丞相(首相)を務めた。

この長い在任期間に、張蒼はどんな事績を残したのか。

中国史人物伝シリーズ

周亜父

丙吉(1) (2)

目次

秦の官吏

張蒼は陽武の出身で、書籍・音律・暦法を好んだ。
かれは、秦の時代に御史(史官)となり、宮殿内の柱の下で方書(天文や律歴などの書)を管理していたが、
罪を犯して郷里に逃げ帰った。
後に、劉邦が各地を攻略して陽武を通ったとき、張蒼は客となって従い、南陽を攻めた。
その際、張蒼は法に触れて斬罪に処せられることになり、衣服を脱いで斬首台に伏した。
張蒼は身の丈八尺(約一八四センチメートル)余りと大きく、瓠(ひょうたん)のように肥えて色白であった。
たまたま王陵がかれをみて、
「あれは美士ですぞ。斬ってはなりませぬ」
と、劉邦に進言した。そのため、張蒼は赦免された。
その後、張蒼は劉邦に従って西行して武関より関中にはいり、咸陽に至った。

武功を立てる

紀元前二〇六年、劉邦は漢王となり、漢中にはいり、引き還して三秦を平定した。
翌年に、常山王張耳が陳余に攻められて敗走し、漢に帰服した。
張蒼は常山の郡守に任じられ、韓信に従って趙を撃ち、陳余を捕えた。
趙の地が平定されると、張蒼は劉邦から代の宰相に任じられ、匈奴の辺境への侵入に備えた。
その後、張蒼は趙の宰相に遷され、趙王の張耳を輔佐した。
紀元前二〇二年に張耳が死去すると、あとをついだ張敖(張耳の子)の宰相になり、
また遷って代の宰相となった。
燕王臧荼が謀反すると、張蒼は劉邦の親征に従って功を立てた。
紀元前二〇一年、張蒼は北平侯に封ぜられ、食邑千二百戸を賜った。

一家言

その後、張蒼は計相ついで主計(いずれも財務大臣)を四年つとめた。
張蒼は秦代に柱下御史をつとめ、天下の図書・財政帳簿に通じ、算術・音律・暦法にも長じていたので、
郡や国からの会計報告を担当した。
さらに、張蒼は、音律と暦法のもとをたずねて修正した。
ただし、劉邦が十月にはじめて霸上に至ったので、もともと十月を歳首としていた秦暦を改めなかった。
また、五行の徳(木・火・土・金・水)の運行から推測して、漢は水徳であるとし、秦と同じく黒を尚んだ。
さらに、十二の音律を決める律呂(竹管)を吹いて音程を調整し、五声(宮・商・角・徴・羽)に当てはめた。
その後、漢代に音律や暦法について論じる者は、みな張蒼にもとづいた。

鼎 位

紀元前一九六年に、淮南王の黥布(英布)が謀叛して亡ぶと、
劉邦は末子の劉長を淮南王に立て、その宰相に張蒼が任じられた。
十六年後、御史大夫(副首相)であった曹窋(曹参の子)が呂氏の乱で免ぜられ、
淮南の宰相であった張蒼が中央に遷り、御史大夫となった。
張蒼は、周勃らとともに代王の劉恒を皇帝に尊立した。これが、文帝である。
文帝四年(紀元前一七六年)、丞相の灌嬰が亡くなると、御史大夫であった張蒼が丞相に昇った。
ときに、張蒼は八十歳前後であるとおもわれる。高齢の宰相の誕生である。
漢が天下を統一してから二十年以上が経ち、ようやく天下が定まってきた頃であり、
将相・公卿はみな軍吏であった。
創業から守成に移行する過渡期にさしかかり、
建国の功臣よりも実務に長けた人物が必要とされるようになったのであろう。
張蒼はもともと書物を好み、読んでいない書物はなく、通じていないものなどなかったが、
とりわけ音律と暦法に通じていた。
それだけに張蒼は、
――われには、なさねばならぬことがある。
と、使命感にかられ、年齢を感じさせないくらい精力的に政務に取り組んだ。
たとえば、比較分類して律令を定めたり、工人のために天下共通の度量衡の標準を定めたりした。

報 恩

張蒼は王陵に生命を救われたことに恩義を感じ、高貴になっても、わが父に仕えるように王陵に仕えた。
張蒼は、王陵の死後に丞相となったが、休暇のたびにかならずまず王陵の夫人を見舞い、
食物をさしあげてからでなければ帰宅しようとしなかった。

漢朝の徳

文帝十四年(紀元前一六六年)、魯人の公孫臣が上書して、
「五行終始の転次から推しますと、漢は土徳にあたり、土徳の応兆としては、黄龍があらわれます。
正朔(暦)を改め、衣服の色をかえ、色は黄をたっとばれるのがよろしいでしょう」
と、進言した。
事案が、丞相の張蒼に下げ渡された。
張蒼は、みずから漢を水徳とする暦法を定めただけに、
「漢は水徳のときにあたっており、河水(黄河)が金隄で決潰したのは、その兆符じゃ。
年は冬十月にはじまり、色は外が黒く内が赤いのが徳に相い応じている」
と、反駁し、
「非なり」
と、判じ、公孫臣の意見をしりぞけた。
ところが、翌年になって、黄龍が成紀(隴西郡内の県)にあらわれた。
「公孫臣の申した通りであった」
文帝は公孫臣を召しだして博士とし、土徳の時代に相応する暦法・制度を起草させ、
二年後(紀元前一六三年)に改元し、後元年とした。
張蒼はこのことで負い目を感じ、
「われは病んで、老いぼれてしもうたわい」
と、こぼすようになった。
それだけではない。
張蒼はある人を推薦して中候(城門警護官)にしたが、この者がひどく不正な利益をむさぼった。
張蒼はこのことで文帝から譴責されて、病に罹り、十五年務めた丞相職を罷免された。
ときに、文帝後二年(紀元前一六二年)、張蒼は九十歳を超えていた。

老後の滋養法

張蒼は丞相を罷免された後、口中に歯がなかったので、夭い女人の乳を飲んだ。
妻妾が百をもって数えられるほどもおり、女人を妊娠させると、もう寵愛しなかった。
張蒼は、景帝前五年(紀元前一五二年)に死去した。百歳を超えていたという。
かれには、陰陽や律暦に関して論じた十八篇の著書がある。

家門と身長

張蒼の父は、身長が五尺(約一一五センチメートル)に満たない短軀の持ち主であった。
しかし、張蒼は八尺を超える長身で、諸侯になり、丞相にまで昇った。
張蒼の子も、長身であった。
孫の張類は身長が六尺(約一三八センチメートル)余りしかなく、
法に触れ諸侯の地位までも失ってしまった。
当時は、美丈夫には特別な才覚がある、と信じられた。
身長が家門に相関するわけではないが、
押し出しが出世に影響した当時の社会の側面を垣間みることができよう。

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