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中国史人物伝

勇猛な小心者 項羽と劉邦を恐れさせた刑余の王 英布(黥布)(楚漢)(1) 黥将軍

古代中国では、重大な犯罪を犯した者に対し、みせしめとして、
黥(いれずみ)
劓(はなきり)
刖(あしきり)
宮(去勢)
大辟(死刑)
という五刑を適用したとされる。

刑を施された者が、人前に出ることなどとうていかなわず、

なかば世捨て人として余生を送るしかなかったであろう。

しかし、なかには辱しめなどものともせずに栄達を果たした者もいた。

英布(黥布) (?-前196)

は、黥刑を受け徒刑囚にまで身を貶としながらも、

生き抜くためならば虐殺や裏切りも敢えて辞さず、世の動乱に乗じて王にまで成りあがった。

その生きざまから、まさに下剋上を体現したような野心家を彷彿させるが、

切所でどう対処するかを決めたのは、かれ自身ではなかった。

野戦では勇猛な司令官でありながら、おのれの処世については翼翼としてしまう。

最後には嫉妬心から陥穽にはまり、富貴を保ちきれなかったのは、

主体性に乏しかったゆえであろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

観 相

英布は、六(秦代の九江郡六県)の庶民であった。
秦代の庶民は、冠をかぶらずに黒髪を出していたことから、
黔首
と、よばれた。黔は、黒である。
若いころ、ある客に人相を観てもらい、
「まさに刑せられて王たるべし」
と、いわれた英布は、
「刑を受けてから王になる。おもしろいじゃないか」
と、笑って返した。
そのときはそれほど気にもとめなかったのであるが、壮年になって法にふれ、黥刑に処せられた。
黥は、いれずみである。
秦の法は非常に煩瑣であり、些事であっても法にふれてしまうことがある。
英布が犯した罪は、どのようなものであったろうか。
ともかくも、英布は刑に処されて悄然とするどころか、欣然と笑って、
「われの人相を観て、刑を受けてから王になるであろう、と申した者がおったが、このことらしいわ」
と、いった。これをきいて、
「刑余の者が、王になどなれるものか」
と、みながからかって笑った。
以後、黥布とも呼ばれるようになった英布は、驪山(麗山)に移送された。
秦の首都であった咸陽の東南にある驪山には数十万人もの刑徒がおり、
始皇帝の寿陵(陵墓)の造営に従事させられていた。
英布は刑徒の長や豪傑らと交際し、徒党を組むようになると、
「このままでは、死あるのみじゃ」
と、語らい、仲間を引きつれて脱走し、長江流域まで逃げて盗賊になった。

旗揚げ

紀元前二〇九年に陳勝が秦にたいして叛乱を起こすと、英布は番陽の県令である呉芮に面会し、
「いっしょに秦にそむきしょう」
と、説き、了承を得た。
呉芮は、民心を得ていた。それゆえ、英布は数千人の兵を集めることができた。
そのようすをたのもしく感じてもらえたのか、英布は呉芮の女を娶ることができた。
翌年に秦の将軍である章邯が陳勝を滅ぼすと、英布は兵を率いて北上し、
秦の左右校尉(将軍に次ぐ武官)を攻めて清波で破り、東へむかった。
そのころ、楚の名将であった項燕の子と名のる項梁が会稽を平定し、長江を渡って西進したときいた。
「項氏は、楚の将軍の家がらじゃ」
英布はそういうと、兵を率いて項梁に帰属した。
項梁は英布らを加えると、淮水を渡って西へむかい、景駒や秦嘉らを攻撃した。
英布は大軍相手でも引けをとらぬ勇猛ぶりで、いつも軍中第一の手柄をたてた。
そのため、英布は項梁に気に入られ、つねに先鋒をまかされて、
当陽君
の号を与えられた。
項梁は薛に至ったときに陳勝の死を聞き、楚の懐王の孫である心を立て、懐王と名告らせた。
その三か月後に項梁が定陶で敗死すると、懐王は都を彭城に遷した。
英布は諸将とともに彭城の守りを固め、秦軍の来襲に備えた。

鉅鹿の戦い

趙からの使者がしきりに懐王のもとへきて、救援を求めてきた。
秦軍は項梁のいない楚を攻めずに、趙に攻めこみ、鉅鹿を包囲したのである。
懐王は、趙の要請に応じて援軍をだすことにした。
上将軍には宋義が任じられ、項羽や英布ら項梁の麾下の部将は、みな宋義に属することになった。
宋義はこの軍を卿子冠軍と号し、彭城を発して、趙を救うべく北上した。
ところが、宋義は安陽で進軍を停めた。
ここで年があらたまり、紀元前二〇七年になった。
「疾く黄河を渡り、秦軍を撃つべし」
項羽がいたずらな滞陣をいぶかって宋義を殺し、みずから上将軍になった。
あまりのすさまじさに、陣中は騒然となりかけた。しかし、英布が、
「これからは、謹んで将軍の命に従います」
と、真っ先に項羽に恭順の意を表明すると、諸将も項羽に服した。
「ただちに渡河して、秦軍を撃て」
英布は項羽から二万の兵を与えられて黄河を渡り、秦軍を攻撃したが、十倍以上もの大軍には通用しなかった。
「だめです。びくともいたしません」
英布が不首尾を報告すると、項羽は黄河を渡り、秦軍を大破して趙を救い、章邯らを降伏させた。

討 秦

阬 殺

紀元前二〇六年、項羽の軍は西へむかって快進撃をつづけ、諸侯の兵をあわせて三十余万にまで膨れあがった。
新安に至ったとき、英布らは、
「秦の降兵を、みな殺しにしろ」
と、項羽から命じられた。
章邯の部下であった吏卒は、諸侯の吏卒から奴隷のような扱いを受けていた。
項羽は、かれらから謀叛のにおいをかいだのであろう。
英布らは夜陰にまぎれて秦の降兵を襲い、崖縁に追い込んで谷底へ墜とし、阬殺した。
二十万人超の大虐殺であった。

入 関

項羽の軍は、さらに進んで函谷関に至った。
ここを突破すれば、秦の本拠である関中にはいれる。
ところが、関門が閉ざされていた。
よくみると、旗の色が秦の黒ではなく、赤であった。
「劉邦め――」
劉邦が先に関中にはいり、函谷関を閉じた、と知って項羽は怒った。
「間道から攻めろ」
英布らは項羽からそう命じられ、間道を通って関を守る軍を撃破した。
こうして函谷関を突破して関中にはいり、ついに咸陽に至った。

刑余の王

秦の討伐にあたり、項羽率いる楚軍の軍功は、諸侯のなかで抜きんでていた。
それゆえ、項羽は王として諸侯の盟主になろうとした。
そこで、項羽は懐王を義帝にまつりあげておいてから、諸侯の封建をおこなった。
諸侯を各地の王に封建する項羽の沙汰が読みあげられるなかで、
「英布を九江王とする。六に都せよ」
と、わが名をきいたとき、英布は、一瞬おのれの耳を疑った。
――あの人相観の申した通りになった。
このとき、項羽の麾下で王にとりたてられた者がほかにいなかったことを想えば、
英布の功が無視できないほど大きく、かつ項羽からの信頼が大きかったかったことがうかがえよう。
英布は西楚の覇王になった項羽に恩を感じ、より一層忠勤に励もうと意を強くしたのであった。

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