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中国史人物伝

漢中興の功臣 丙吉(前漢)(1) 恩を語らず

劉邦が建てた漢王朝は、武帝の治世を境に衰退に転じる。

そんな中、帝位に即いた宣帝は、生後まもなく刑務所へ入れられ、

庶民として暮らし、多感な時期を民間で育てられたという異色の経歴の持ち主であった。

長く巷間で育ったせいか現実主義であった宣帝は刑法を重視し、信賞必罰の政治を行い、

法家思想に基づいた統治をおこなった。

その一方で、恤民政策に注力し、対外的にも成果を挙げ、漢王朝を中興した名君と讃えられる。

宣帝の中興に貢献した重臣に、
丙吉 (?-前55)
がいた。

かれがいなければ、宣帝は皇帝になれなかったばかりか、

生きて刑務所から出ることすらかなわなかったであろう。

中国史人物伝シリーズ

目次

小役人時代

丙吉(邴吉)はあざなを少卿といい、魯国の人である。
丙吉は律令を修得し、魯国の獄吏となった。
その後、中央にはいり、廷尉右監(法務大臣の属官)になった。
しかし、法に触れて免ぜられ、帰郷して豫州の従事(州刺史の属官)になった。

治 獄

征和二年(紀元前九一年)、巫蠱の乱が勃こると、都に呼ばれ、詔命により郡邸の獄で裁いた。
叛乱の首謀者とされた太子劉拠に連坐して獄中に繋がれた者のなかに、まだ襁褓のなかにいた皇曾孫がいた。
生まれてからまだ数か月しか経っていないという。
――惨いことを……。
生後まもない嬰児をみて憐れんだ丙吉は、
――太子は無実である。
という心証を得たこともあり、無辜の曾孫に対しよけいに憐閔の情をいだいた。
丙吉は控え目で温厚な女刑徒(女性受刑者)を乳母に択び、私費を投じて曾孫を養育させた。
丙吉は裁きをおこなったが、判決が出ないまま年月が経った。

大 赦

後元二年(紀元前八七年)、武帝が罹病した。
「獄中に天子の雲気がございます」
望気者(占い師)からそう告げられると、武帝は獄中にある者を皆殺しにするよう命じた。
武帝の命を受けた使者が夜にやってくると、丙吉は郡邸の獄の門を閉じ、
「ここには曾孫がおられます。余人といえど罪なくして誅すなどもってのほかであるのに、
実の曾孫ならなおさらじゃないですか」
と、いい張り、立ち入りを拒んだ。
押し問答は、夜が明けるまで拒みつづいた。
「もうどうなっても知らぬぞ」
使者は、捨て台詞を遺して引き返した。
使者が再びやってくることはなかった。
赦令が下された。
丙吉のおかげで、獄中にいた者はみな命拾いできたのである。
丙吉は曾孫を車にのせて祖母の実家である史氏の邸に送り届けた。
武帝が亡くなり、昭帝が即位すると、丙吉は大将軍長史(副官)となり、大将軍霍光に重んじられ、
光禄大夫(宮中の顧問官)に任じられ、宮中にはいった。

宣帝擁立

元平元年(紀元前七四年)、昭帝が亡くなり、甥の劉賀が皇帝に立ったが、わずか二十七日で廃された。
――淫行による。
これが、表立った理由である。
だが、実際は劉賀が実力者の霍光を除こうとしたことが判明したため、霍光が機先を制したのではあるまいか。
ともかくも、皇族のうち帝位にふさわしい者を擁立しなければならない。
後継者の選定に苦慮する霍光に、丙吉は、
「武帝の曾孫である病已は、詔により後宮で養われ、今は十八歳ですが、経術に通じ、才能が立派で、
おこないは慎み深く、節度にかなっております」
と、進言した。
霍光が丙吉の進言を容れたため、劉病已が皇帝に擁立された。宣帝である。
かれこそが、十七年前、郡邸の獄中にいた嬰児であった。
丙吉は、宣帝擁立の功により関内侯になった。
それ以上に丙吉から恩徳を受けていたことを、宣帝は全く知らなかった。
丙吉も口をつぐんで前恩を口にしないどころか、恩着せがましい言動ひとつしなかった。
――主上を生かしたのは、天じゃ。天恵を穢してはならない。
丙吉の胸底にあるおもいとは、そういうものであったかもしれない。

内朝と外朝

宣帝が即位すると、霍光は大政を奉還することを宣帝に申し出た。
しかし、宣帝は聴許せず、
「諸事みなまず関(あずか)り白(もう)すべし」
と、霍光に命じた。
どのようなことであっても、霍光を通してから奏上させたのである。
日本の「関白」は、この語に由来する。
霍氏一族は顕官を占め、霍光の女は宣帝の皇后になり、霍氏の権勢は頂点に達した。
ところが、地節二年(紀元前六八年)に霍光が亡くなると、憚るものがなくなった宣帝は、
つぎの年に、霍氏と血のつながりのない長子の劉奭(のちの元帝)を太子に立てた。
丙吉は太子太傅となり、数か月後、御史大夫(副首相)に任じられた。
丙吉は丞相の魏相と親しく、心をあわせて政事を輔佐したので、宣帝は二人をともに重んじた。
昭帝のときから大司馬大将軍領尚書事である霍光が内朝にあって政治を専断したため、
丞相以下の外朝は単なる行政事務機関でしかなくなっていた。
――外朝の権力を取り戻したい。
そう意う魏相は、霍氏を除くよう宣帝に進言していた。
宣帝は徐々に霍氏の権力を削ぎ、みずからの意思を政治や人事に反映させはじめた。

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