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中国史人物伝

退かぬ‼ 媚びぬ 顧みぬ‼ 清節を貫き通し、蘇東坡の師表となった”八顧” のひとり 范滂(後漢)

北宋の大文豪 蘇東坡(蘇軾)は、幼いころ、

范滂(あざなは孟博)(137-169)

の伝記を、よく母に読んでもらっていた。

范滂は、後漢末に宦官と激しく対立した清流派の士大夫のひとりである。

第二次党錮の禁で、范滂に捕吏がむけられた。

その到着を知ると、范滂はみずから出頭した。

その直前に、范滂が母と最後の会話を交わしたところで、蘇東坡の母はため息をついた。

「もしわれが范滂のようになったら、母上は許してくださいますか」

蘇東坡がそうたずねると、母は、

「そなたが范滂になれたのに、わらわが范滂の母になれないなんてことがありましょうか」

と応えたという。

『後漢書』范滂伝を読むと、范滂の悲劇に憤慨するとともに、

かれの母の言行にも胸を打たれるものがある。

范滂の生きざまは、かれの生年からちょうど900年後に生まれた

蘇東坡の師表になったばかりか、それから千年近くになろうとする

現代においても敬仰すべきものがあろう。

中国史人物伝シリーズ

愛すべき楽天家 蘇東坡(蘇軾)

目次

清詔使

范滂は、汝南郡征羌県出身である。
若いころから清節を貫き、州里の評判になり、孝廉・光禄四行に挙げられた。
冀州が飢饉に遭い、盗賊が群起すると、范滂は清詔使に任じられ、冀州を視察するよう命じられた。
范滂は車に乗って轡を握ると、慨然となり、天下を澄清しようという志が沸き起こった。
かれが冀州の境に至ると、太守県令は辞職して去った。
かれがおこなった劾奏に、異論をさしはさむ者はいなかった。
その後、光禄勲主事に遷任した范滂は、
上司である光禄勲(宮中の内務を管掌する大臣)の陳蕃のもとに詣でたが、特別扱いされなかった。
范滂は恨みをいだき、版(笏)を投げて辞職した。

弾 劾

その後、范滂は太尉の黄瓊に辟召された。
三府の属官に民間の世論を検挙するよう詔がくだると、
范滂は、豪族で刺史や太守になり、権勢をふるっていた二十余人を劾奏した。
「弾劾した者が、あまりにも多い。私的な理由があるんじゃないか」
尚書からそう疑われ、范滂が、
「臣が挙げた者どもは、賄賂を受けたり暴虐であったりして深く民の害になっているものばかりです。
農夫が雑草を引けば嘉穀が必ず茂り、忠臣が姦を除けば王道は清む、と臣は聞いております。
もし臣の言にふた心がございましたら、甘んじて公開処刑を受けましょう」
と、応じると、吏はそれ以上詰問することができなくなった。
――いまは、理想を実現できる時世じゃない。
范滂はそう見切ると、おのれを弾劾する書を出して辞去した。

汝南の功曹

范滂は帰郷すると、汝南太守の宗資に招かれて、功曹(人事部長)に任じられ、政事を委任された。
厳整で、悪を憎んだ范滂は、おこないが孝悌にそむき、仁義に外れている者をことごとく追放した。
その一方で、かれは節義にすぐれたを者を顕彰して推薦し、野に埋もれた才人を抜擢した。
范滂の外甥の李頌は、名家の出でありながら、郷里の鼻つまみになっていた。
「李頌を吏にとりたてたいのだが」
宗資からそうとりなされたが、范滂は、
――ふさわしくない。
と、判じ、李頌を召しださなかった。
このようなことがあって、范滂は郡中のならず者から怨まれるようになり、かれが擢用した者たちは、
「范党」
と、呼ぱれた。

第一次党錮の禁

黄門北寺獄

桓帝は、張成という占い師の占いを信じていた。
張成の弟子の牢修が、延熹九年(一六六年)に、
「李膺らが太学生を手なずけて党派をつくり、朝廷を誹謗しております」
と、上書すると、桓帝は震怒し、党人を逮捕するよう命じた。
第一次党錮の禁である。
范滂も党人として逮捕され、黄門北寺獄に繫がれた。
黄門北寺獄は、宦官が所管する監獄である。
「獄に繫がれれば、みな皐陶を祭るものだ」
獄吏からそういわれ、范滂は、
「皐陶は賢者であり、古の直臣だ。われに罪がないのなら、天帝に申しあげてくださるだろう。
罪があるのなら、祭っても詮ないことだ」
と、いいかえした。
これをきいて、他の者も皐陶を祭るのをやめた。
獄吏が、拷問をはじめようとした。
囚人には、罹病している者が多かった。
「われを先にしろ」
范滂はみずからそう願い出て、同郡(汝南郡)の袁忠と争うようにこもごも酷刑を受けた。

中常侍王甫

桓帝は、中常侍(侍従)の王甫に命じて囚人たちを尋問させた。
范滂らはみな手、足、および首に枷をはめられたうえに、頭に袋をかぶせられて、階下に並ばされた。
さきに尋問を受けた囚人で自白する者もいれば、そうでない者もいた。
范滂と袁忠は、あとからきて順番を抜かして尋問を受けた。
「君は人臣でありながら、国に忠義を尽くそうとせず、徒党を組み、互いに褒めあい、推挙しあって、
朝廷を批評し、うそをでっちあげること半端ない。謀議してなにをしたかったんじゃ」
王甫からそう訊かれ、范滂は『論語』(季子)を引きながら、
「仲尼(孔子)の言に、善を見ては及ばざるがごとくし、悪を見ては湯を探るがごとくす、とあります。
善を善としてそのすべてを清いものとみなし、悪を悪としてそのすべてを汚れたものとみなす。
これが王政のききたいことであろう、とおもうておりました。
それなのに、まさか徒党をなしているなんていわれるとはおもいませなんだ」
と、よどみなく応えた。
王甫は、なおも尋問をつづけた。
「卿は互いに抜擢推挙しあって唇歯の間柄になり、合わない者は排斥した。どういうつもりじゃ」
范滂が慷慨して天を仰ぎ、
「古は善をなせば多くの福があったものですが、いまは善をなせば処刑されてしまいます。
われが死んだら、どうか首陽山(伯夷と叔斉が餓死したところ)のそばに埋めてください。
上は皇天にそむかず、下は伯夷・叔斉に愧じるところなどございませんので」
と、いうと、王甫の容態が改まり、范滂の桎梏を解いてくれた。

遺直に倣う

のちに、范滂は許された。
范滂らが獄につながれたとき、尚書の霍諝がかれらを弁護してくれた。
范滂は赦免されると都へゆき、霍諝をたずねたが、謝礼をしなかった。
ある者からそれを責められると、
「昔、叔向が罪にかかると祁奚が救ったが、叔向が謝辞を述べたとも、祁老が自慢顔をしたともきいておらぬ」
と、返した。
都を発つと、汝南郡と南陽郡の士大夫でかれを迎えた者が、車数千両に及んだ。
同じく釈放された同郷の殷陶や黄穆らも范滂に同行し、范滂に付き従って賓客に応対した。
范滂は振り返って殷陶らに、
「いまあなた方がついてくれば、われの罪を重ねるだけじゃ」
と、いい、郷里へ逃げ還った。

訣 別

建寧二年(一六九年)、党人に粛清の嵐が吹き荒れた。
第二次党錮の禁である。
詔がくだり、范滂に捕吏がむけられた。
督郵(監察官)の呉導は征羌県に至ると、詔書を抱いて傳舎を閉め、牀(寝台)に伏して泣いた。
これをきいて、范滂は、
「きっとわれのためじゃ」
と、いい、みずから獄へむかおうとした。
征羌県令の郭揖はたいそう驚き、役所を出て県令の印綬を解き、
「天下は広大です。あなたはどうしてこんなところにおられるのですか」
と、いい、ともに逃げようと誘った。范滂は首を横に振り、
「われが死ねば、禍は終わります。どうして君に罪を及ぼすことができましょう。
また、わが老母を流離させられましょうか」
母が、范滂に訣れを告げにきた。
「弟の仲博は孝敬で、しっかりと母上にお仕えいたしましょう。われは父君に従って黄泉へまいります。
生き残る人も、死にゆく人も、ふさわしい場所を得ました。
母上におかれましては、われへの忍ぶことのできぬ恩情を断ち、あまり悲しまないでください」
范滂がそう語げると、母は、
「なんじはいま、李膺や杜密と名声を等しくすることができたんじゃ。死んでも何を恨もうか。
すでに令名があるのに、そのうえ長寿を求めようなんて、無理な話じゃ」
と、返した。
「お教え、承りました」
跪いてそう応じ、再拝して母と訣れた范滂は、ふりかえり、
「われはなんじに悪をなして(長生きをして)ほしいとおもうが、やはりしてはならぬ。
なんじに善をさせようとして、われは悪をなさなかった」
と、子に声をかけた。
道ゆく人で、これを聞いて涙を流さなかった者は、いなかった。
范滂は、三十三歳で刑場の露と消えた。

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