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中国史人物伝

白公の乱を治めた君子は龍がお好き⁉  沈諸梁(葉公子高)(春秋 楚)(1) 不孝を憎む

孔子が没した紀元前四七九年に、南方の大国 楚で白公の乱とよばれる内乱が起こった。

これを鎮めたのが、
沈諸梁(あざなは子高)
という大臣である。

かれは、のちの書物に、
葉公
あるいは
葉公子高
と、記される人物で、
「葉公好龍」
という成語や『論語』(子路)の直躬の話でも有名である。

一方、『春秋左氏伝』にみえる葉公は、軍事にも内政にも長けた君子であった。

中国史人物伝シリーズ

目次

沈氏(沈尹氏)

葉公子高(沈諸梁)は楚の荘王の玄孫で、葉県に封ぜられた。
沈氏(沈尹氏)は楚の王族から岐れた世族ではあるが、その世系は判然としない。
『春秋左氏伝』で最初に登場する沈尹は、紀元前五九七年の邲の戦いで楚の中軍の将を務めた人物である。
『呂氏春秋』(不苟論 賛能)には、沈尹茎が孫叔敖を荘王に推挙した、との記事があり、
もしかすると、この人物がそうなのかもしれない。
沈尹茎は、おそらく穆王か成王の子であろう。
つぎにあらわれるのが、呉軍の侵攻を邀え撃った名将 沈尹戌である。
葉公の父である沈尹戌は荘王の曽孫とされ、荘王の子公子貞の孫という説もある。
そうなると、沈尹茎との繋がりがわからない。
沈尹戌の父が判明すれば、腑に落ちることがあるかもしれない。

不孝を憎む

『史記』(孔子世家)によれば、孔子は亡命中、陳・蔡のあいだで困阨していた。
そのとき、孔子を迎えいれ、召しかかえようとしたのが、楚の昭王であった。
これは紀元前四八九年のことであるが、昭王の最大の危機は、その十七年前にあった。
昭王十年(紀元前五〇六年)、呉王闔閭が大軍をもよおして楚に攻めこんできた。
呉軍の侵攻を邀え撃ったのが、葉公の父 沈尹戌であった。
かれは呉軍の猛攻をよく防いだものの力尽き、戦死してしまった。
呉軍は連戦連勝をつづけ、楚の首都郢まで陥とされてしまった。
伍子胥が平王の屍体に鞭打ったのは、このときである。
存亡の危機を脱すべく、大夫の申包胥が秦へゆき、楚の救援を哀訴した。
秦はそれに応じ、翌年、兵を発して楚にむかって進撃し、楚は呉から失地を奪還しはじめた。
葉公の弟后臧は母とともに呉にいたが、呉の旗色が悪くなったのをみるや、母を呉に棄てて国に逃げ帰った。
葉公はその不孝を憎み、后臧に終生冷たく接した。

将 器

呉軍は楚から去り、楚は領土を回復した。
昭王の異母兄である子西(王子申)が令尹(首相)、子期(王子結)が司馬となって楚の復興につとめ、
ふたたび北のかた中原をうかがえるまでになった。
昭王二十五年(紀元前四九一年)、葉公は左司馬販や申公寿余と北伐を企て、
楚の領内に住んでいた蔡人を負函に集め、方城の外にいた人たちを繒関に集め、
「呉が江水をさかのぼって郢都に攻め入ろうとしているので、邀え撃つことになりました」
と、告げ、夜に突如として出陣を命じ、翌日に蛮氏の邑である梁と霍を急襲した。
蛮の君は、たまらず北方の強大国晋に逃げ込んだ。
葉公らはこれを追って晋の領内へ侵攻し、蛮の君の引渡しを晋に求めた。
その要求に応じ、晋は蛮の君を楚へ引き渡した。

王孫勝

昭王が呉に攻められた端緒のひとつに、昭王の兄にあたる太子建の廃嫡があった。
太子建は父の平王から廃嫡され、中原諸国を転々としたあげく、亡命先の鄭で殺された。
建には勝という子があり、追手から免れて呉へ逃れた。
歳月が経ち、このほとんど忘れ去られたような王孫を気にかけていたのが、令尹の子西であった。
「勝を、召し還そう」
かれがそういいだしたのは、当時、兄弟の子はわが子同然とみなされていたことが背景にあり、
無辜でありながら国外で労苦する甥の不遇をあわれんだのかもしれない。
それをきいて、
――危ういかな。
と、感じた葉公は、子西に面会を求めた。

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