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中国史人物伝

紙を発明した?善玉宦官 蔡倫(後漢)

“古代中国の四大発明” を、ご存知であろうか?

――牛タン・冷やし中華・回転ずし・炉端焼き
それは、”仙台四大発明”(回転ずしは、大阪発祥かも)

正解は、羅針盤・火薬・紙・印刷

これらがシルクロードを通して世界へ伝えられた。

紙を発明したとされてきた人物が、
蔡倫(あざなは敬仲)
後漢の宦官である。

中国史人物伝シリーズ

目次

宦官とは?

宦官は去勢された官吏で、男子禁制の後宮で雑務を担当した。
皇帝や後宮の妃妾にとって、身近な側近といってよい。
宦官は、もとは宮刑により去勢された罪人であった。
やがて宦官が君主や妃妾に取り入って寵愛され、権力を手中にするようになると、
出世のためにみずから去勢して宦官になる自宮宦官もあらわれた。
性器を除去された宦官は、性欲を満たすことができない。
その分、欲求が権勢や財物にむけられたため、宦官の権勢欲や物欲は尋常ではなかった。
ひとたび欲望を抱けば、対象物を獲るために手段を択ばなかった。
宦官といえば、秦の趙高、後漢の十常侍、蜀漢の黄皓らが国を傾けたせいか、
権力を独占し、私腹を肥やし、国家に害毒をなす悪人という印象が強い。
中国の文化制度を積極的に取り入れた日本が、宦官制度を採用しなかった一因は、そこにあろう。
しかし、一方では、『史記』を著した司馬遷、明代に大航海をおこなった鄭和のように
益をもたらした宦官もいたのである。

恪 勤

蔡倫は、桂陽郡出身であった。
かれが宦官になった経緯は不明である。
明帝の永平末年(七五年ごろ)に後宮で勤めはじめた。
章帝の時に小黄門(皇帝の使い走り)になった。
和帝が即位すると、中常侍(侍従)に昇進し、帷幄に参与するまでになった。
蔡倫には才能と学識があり、人情が篤くて忠実で慎み深かった。
かといって、上尊に迎合するわけではなく、和帝の意に逆らってでも政治の得失を匡し、輔弼した。
休暇中は門を閉ざして賓客と交際したりせず、農耕に励んだ。
その精勤ぶりが評価されたのか、尚方令(宮廷器物製造所の長官)を兼務するようになると、 
永元九年(九七年)には、秘剣や種々の器械の製作を監督し、精巧かつ緻密で後世の手本となった。

蔡侯紙

古昔から、書契は竹簡を編むことが多かった。
また、縑帛(絹)から作られる「紙」に文字を書きつけることもあった。
しかし、竹簡は重く、「紙」は高価であった。
――もっと簡便に紙を使えないものか。
蔡倫は創意工夫を凝らし、樹皮・麻屑・ぼろ布・魚網を使って紙をつくり、
元興元年(一〇五年)、和帝に献呈した。
和帝は蔡倫の才能を褒め、天下の人びとは、
「蔡侯紙」
と、呼んで、みな紙を使用するようになった。
蔡倫は長く紙の発明者とされてきたが、紙(麻紙)が前漢から存在していたことが明らかにされた現在では、
蔡倫は製紙法を改良し、実用化したとされる。それでも、かれが賢能であることには変わりない。

愛憎と生死

元興元年(一〇五年)、和帝が崩御すると、生後わずか百余日の殤帝が立てられ、
鄧皇后が太后として臨朝称制した。
翌年、殤帝が亡くなると、鄧太后らは十三歳の安帝を擁立し、臨朝をつづけた。
皇帝が幼いとき、嫡母である皇太后が臨朝称制し、幼帝に代わって聴政をおこなう。
日本でいえば、摂政に相当する。
後宮で暮らす皇太后が頼れるのは、実家の兄弟である外戚と、後宮に出入りが許される宦官しかいない。
ゆえに、皇太后の権力が大きくなると、手足のように使える宦官が抬頭することになる。
蔡倫は、権力者である鄧太后の寵愛を受け、出世した。
元初元年(一一四年)、鄧太后は、長く宿衛した功績として、蔡倫を龍亭侯に封じ、三百戸の食邑を与えた。
蔡倫は、後に長楽太僕(太后の車馬を管掌する大臣)に昇進した。
元初四年(一一七年)、学問を好む安帝は、古典の多くに異同があることを懸念し、
儒者の劉珍らを選抜して東観(宮中の図書館)で家法を校訂させ、蔡倫にそれを監督させた。
しかし、栄華がこのまま永く続くわけではなかった。
権力者の威光を背にした宦官の権勢は、権力者が交替すると脆くなりがちである。
永寧二年(一二一年)鄧太后が崩御し、安帝が親政をはじめた。
安帝は、近臣に命じて父の劉慶が章帝の皇太子を廃された経緯を調査させた。
あがってきた調査報告は、つぎのようなものであった。
章帝の皇后であった竇皇后は、劉慶を産んだ宋貴人を嫉妬し、ことあるごとに章帝に讒言していた。
そんな竇皇后の諷旨を受け、
「宋貴人が邪な媚道をおこなった」
と、誣告して罪に陥れたのが、蔡倫であった。
嵌められた宋貴人は、自殺に追い込まれてしまった。
安帝は真相を知ると、祖母を死に追いやった蔡倫に怒り、
――廷尉(司法官)に出頭せよ。
という勅命を出した。
矜り高い蔡倫は辱められることを潔しとせず、沐浴して衣冠を整え、毒薬を飲んで自殺した。

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