秦の初代丞相 世渡り上手な説客 甘茂（戦国時代）(2) 江上の処女
甘茂は、賢知で一介の説客から鼎位に昇りつめた。
しかし、これで安泰というわけでは決してない。
かれが得た高位は、武王の恩顧によるものでしかない。
君主の信頼を背に権勢を誇った商鞅や張儀であっても、代が替われば地位を保全できなかった。
武王が亡くなり、新王との折り合いが悪くなれば、どんな扱いをされるかわからない。
そんなまるで卵を累ねたかのような危うさのなかに、甘茂はいた。
中国史人物伝シリーズ
目次
武王の死
武王四年（紀元前三〇七年）、武王は周にはいった。
「力比べをしよう」
膂力に自信がある武王は、そういってもちあげた鼎を足に落とし、脛骨を折って絶命してしまった。
天罰でも降ったのではないか、とおもえるほど愚劣な最期である。
武王には、子がいない。
空いた王位をめぐり、武王の群弟が争いをはじめた。
この内乱を制した公子則（または稷）が、王位に即いた。これが、昭襄王である。
甘茂は昭襄王の聴許を得て、韓から奪い取った地を、韓に返還した。
これに不満であった向寿や公孫奭が、昭襄王に讒訴した。
向寿は宣太后の一族であり、幼いころから昭襄王といっしょに育てられた。
それゆえ、昭襄王は向寿の誣語を信じてしまった。
甘茂はおのれにむけられた昭襄王の冷えた視線に身の危険を感じ、秦から去った。
江上の処女
亡命の途中で、甘茂は蘇子に遇った。
『史記』（樗里子甘茂列伝）によれば、この蘇子は、蘇秦の弟の蘇代である。
蘇秦は張儀よりまえに活躍した縦横家である、というのがこれまでの常識であったが、
最近の研究では、蘇秦が張儀よりもあとに活躍したことを示唆するものがある。
この説に乗れば、この蘇子は蘇秦であったかもしれないが、ここでは蘇代としておく。
蘇代は、斉の使者として秦へむかうところであった。
「われは秦から追いだされ、安住の地がありません」
甘茂がそう切りだすと、蘇代は唖然とした表情を浮かべた。そこで、甘茂は、
「江上の処女の話をご存じですか」
と、訊いた。
「存じません」
蘇代が首を横にふるのをみて、甘茂は次のような話をした。
江水（長江）のほとりで、処女らが毎夜集まり、麻糸を紡いでいた。
そのなかに、家が貧しくて燭（灯り）のない者がいた。
他の処女らが語らって、燭をもっていない処女を仲間外れにしようとした。
そこで、貧しい処女が去り際に、
「わたしは燭がないものですから、いつも最初にきて、部屋を掃除しておりました。
どうして余分な光が四方の壁を照らすのまでも吝しまれるのですか。
わたしに分けていただいても、あなたがたが損をするわけではないでしょう」
と、訴えた。すると、処女らは納得し、貧しい処女を引きとめた。
甘茂は、そう話してから、
「いま、われは困苦しております。どうかあなたのために部屋を掃除させていただきたい。
あなたの光の余りで助けてください」
と、懇願した。これに対し、蘇代は、
「かしこまりました。では、あなたが斉で重んじられるようにさせていただきましょう」
と、応じた。
――これで、なんとかなろう。
と、胸をなでおろした甘茂は、斉へむかった。
蘇代の暗躍
蘇代は、秦へゆき、使命を終えると、
「甘茂は非常の士で、歴代の王に重んじられ、地形の険易を知り尽くしております。
もし、かれが斉を韓や魏と結ばせて秦に敵対すれば、秦の利益になりますまい」
と、昭襄王の不安をかきたてた。
「ならば、いかがいたせばよかろう」
と、昭襄王から対策を諮われ、蘇代は、
「礼物を鄭重にし、禄を手厚くして甘茂を迎えるのがようございます。
かれが来ましたら、鬼谷に閉じ込めて、生涯出られないようになさいませ」
と、献策した。
「なるほど」
昭襄王は甘茂に上卿の位を与え、丞相に復そうとして迎えの使者をだした。
甘茂がこれに応じずにいると、蘇代が斉の湣王に謁見し、
「甘茂は賢人です。秦はかれに上卿の位を与え、丞相に復そうと迎えの使者をよこしてきました。
ですが、甘茂は王からいただいたものに感じいって、王の臣になりたいと願っており、秦にはまいりません。
いかがなさいますか」
と、たずねた。湣王は手を拍って喜び、
「その願い、かなえてしんぜよう」
と、応じ、甘茂に上卿の位を与え、斉に引き留めた。
秦は甘茂の家の租税を免じ、斉と取引した。
しかし、その後、甘茂が秦の地を踏むことはなかった。
昭襄王は、向寿や魏冄ら親族ばかりを信頼し、重用した。
そこに、甘茂がはいりこむ余地などなかった。
甘茂は、乱世の表舞台からすがたを消した。
かれの死所は、奇しくも張儀とおなじ魏であった。
シェアする