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中国史人物伝

秦の初代丞相 世渡り上手な説客 甘茂(戦国時代)(1) 息壌在彼

百官の長としての丞相職が初めて設けられたのは、

紀元前三〇九年、秦の武王のときであった。

初代丞相には、樗里子(公子疾)と甘茂が任じられた。

ともに賢知で知られたふたりの出自は、大きく異なる。

樗里子が商鞅を抜擢し、富国強兵を成し遂げた孝公の子であったのに対し、

甘茂は一介の説客から人臣の最高位まで昇りつめた才人であった。

甘茂は巧みな弁舌とすぐれた行動力を発揮しながら、

雄弁な張儀、賢明な恵王、明敏な武王という個性的な人物に仕え、高く評価された。

かれが乱世をうまく渡ることができたのは、類稀な才があったことに加え、

おのれが羈旅の臣であることをつねに自覚していたからではなかろうか。

注:甘茂は、「かんぼう」とも「かんも」ともよばれる。

中国史人物伝シリーズ

強秦の知恵袋 樗里子(公子疾)

目次

史挙先生

甘茂は楚の下蔡の出身で、史挙から諸子百家の学説を学んだ。
史挙は下蔡の門番で、その人となりは、
「苛廉」(『戦国策』楚策)
すなわち、冷酷で有名であったという。
そんな人物に、甘茂は従順に仕えた。
かれの世故の才は、このときに培われたのかもしれない。
――王族でなければ、楚では高位に昇れない。
楚の王族ではない甘茂は、おのれの才覚に自信をつけると郷里を去り、秦へむかった。
商鞅や張儀など他国出身者を高位に抜擢して国政を任せた実績が、秦にはある。それゆえ、
――秦で認められれば、栄達できる。
と、踏んだのである。

左丞相

甘茂は秦へゆき、宰相の張儀や実力者である樗里子(公子疾)を説いた。
そして、ふたりの推挙を受けて秦の恵文王に拝謁することができた。
張儀という人物は、
――栄達するためには、王にさえ気にいられればよい。
と、考えていたふしがあり、同僚らとの輯穆を心がけなかったため、
陳軫や公孫衍(犀首)をはじめ政敵が多かった。
その張儀に甘茂が評価されたという事実には、注目すべきであろう。
甘茂は恵文王に気に入られ、恵文王十三年(紀元前三一二年)に、
魏章の佐将として楚が領する漢中の地を略定するよう命じられた。
翌年、恵文王が亡くなり、武王が即位すると、張儀と魏章は秦を去った。
しかし、甘茂は秦にとどまり、武王に仕えた。
武王二年(紀元前三〇九年)に、蜀の宰相である陳荘が謀反を起こした。
「叛乱を鎮めてまいれ」
武王からそう命じられた甘茂が、蜀で旗鼓の才を披露して帰還すると、左丞相に任じられた。

宜陽の役

三川への道

「兵車が通れる道を三川まで通し、周王室を窺いたい。さすれば、死んでも名は朽ちぬ」
武王三年(紀元前三〇八年)、武王は甘茂にこのような抱負を語った。
三川とは、河水(黄河)、洛水および伊水のことである。
これらが集まる地が、王都洛陽である。
つまり、武王は、周に取って替わろう、という野心めいた発言をしたのである。
「それなら魏へゆき、ともに韓を伐つよう交渉しましょう」
甘茂がそう応じると、
「よかろう。向寿をつれてゆけ」
と、武王から告げられた。甘茂は魏に着くと、
「帰って、王に告げてもらいたい。魏は臣の申すことを聴きいれてくれましたが、
王は韓をお攻めにならないでいただきたい、と。うまくいけば、すべてあなたの功としよう」
と、向寿を甘言で懐柔し、秦に帰した。
向寿が疑って、武王に告げないことを恐れたのである。
甘茂が魏の承諾を得て息壌に至ると、武王の出迎えを受けた。
――我慢できなかったか。
と、内心苦笑した甘茂に、
「なにゆえ韓を伐ってはならんのか」
と、武王が問いを浴びせてきた。

曾参殺人

「宜陽は大きな城で、上党や南陽からの租税や糧食を長年にかけて積み蓄えてございます。
王がいくつもの難所を越え、千里の道を行軍してからお攻めになるのは、難儀なことです」
と、甘茂は武王を諭した。
三川への道を通すには、宜陽を攻め陥とさなければならないが、それは容易なことではない。
武王の貌が険しくなったのをみて、甘茂はつぎのような話をした。
むかし、孔子の高弟である曾参が魯の費邑にいたとき、かれと同姓同名の魯人が人を殺した。
「曾参が人を殺した」
曾参の母は人からそう報されたが、平然として機織りをしていた。
――あの子が、人を殺すはずがない。
と、信じきっていたからである。
しばらくして、また別の者から、
「曾参が人を殺した」
と告げられたが、かの女はまだ平然と織りつづけていた。
やがて、また別の者から、
「曾参が人を殺した」
と、知らされると、かの女は懼れて杼を投げ出し、牆(土塀)を飛び越え、逃げ去った。
そう話したあと、甘茂はつぎのようにつづけた。
「曾参ほど賢くて母に信頼されておりましても、三人が疑えば信じられなくなるのです。
臣の賢など曾参に及びもつかず、王の臣へのご信頼も曾参の母ほどではございますまい。
臣を疑う者は、三人どころではございません。臣は、王が杼を投げられませぬかと恐れてございます」
武王の口角が、微かに動いた。
そのまえに、甘茂が話をつづけた。

息壌の盟い

「かつて張儀は西は巴・蜀の地を併合し、北は西河の外を取り、南は上庸を取りましたが、
天下の人びとは張儀を称めずに、先王(恵文王)を称賛しました。
また、魏の文侯は楽羊に中山を攻めさせ、三年かかってようやく抜きました。
凱帰した楽羊に、文侯は箱いっぱいの非難の書を披露しました。
すると、楽羊は再拝稽首して、これは臣の功ではなく、君のお力です、と申したそうです。
ところで、臣は羈旅の臣でございますから、
樗里子と公孫奭が韓の肩をもてば、王はきっとお聴きいれあそばされましょう。
そうなると、王は魏王を欺かれることになり、臣は公仲侈(韓の宰相)の怨みを受けることになるでしょう」
と、甘茂は懸念を述べた。
樗里子の母は韓の王女であり、公孫奭は韓の公子であったらしい。
韓に同情するふたりの重臣が翻意を促せば、武王も心変わりするのではないか。
「寡人(諸侯の一人称)はたれの言も聴かぬ。盟おうではないか」
甘茂は武王と盟ってから、兵を率いて宜陽を攻めた。

息壌在彼

『戦国策』(東周)によれば、宜陽の城は八里(約三・二キロメートル)四方もあり、
精鋭十万人を擁し、数年分の食糧が蓄えられているという。
そんな大城をたやすく攻略できるわけがなく、攻めれば攻めるほど死傷者が増えるばかりであった。
甘茂が五か月も攻めあぐねていると、武王から帰還命令が届いた。
――やはり、樗里子と公孫奭にまるめ込まれてしまったか。
甘茂は、内心嘆息しながら、
「息壌彼に在り」
と、応じた。
――息壌で盟ったことを、もうお忘れになりましたか。
と、武王を責めたのである。
すると、武王は悔悟したのか、国じゅうの兵を総動員して甘茂のもとへ送りこんできた。
――これで勝てなければ、死あるのみ。
甘茂はそう肚を決め、
「明日、太鼓を打って降すことができなければ、宜陽の郭(外城)を墓としよう」
と、全軍に宣言し、私財を投げうって褒賞金を増やした。
これで、将兵の士気が上がらないわけがない。
つぎの日、甘茂が太鼓を打つと、秦軍は敵兵の首を六万も斬り、ようやく宜陽を抜くことができた。
ついに、三川への道が通じた。

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