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中国史人物伝

『楚辞』の作者 国を愛し、節義に殉じた中国初の詩人 屈原(戦国 楚)(2) 汨羅

屈原(1)はこちら>>

屈原が国の行く末を儚んで、川に身を投げた命日は、五月五日であったとされる。

屈原の死を悲しんだ人びとは、かれが身投げした川に米をまいた。

これが、五月五日の端午の節句にちまきを食す起源であるらしい。

この習慣が日本に伝えられたのは、平安時代のことである。

その慣習だけでなく、屈原自身も、海を越えた日本でいまなお敬愛されつづけている。

中国史人物伝シリーズ

目次

懐王の末路

懐王は武関にはいるなり秦に捕えられ、咸陽へ連行されてしまった。
「王も太子も国外で苦しんでおられる。それなのに、いままた王命に背いて庶子を立てるのはよろしくない」
という昭雎の意見により、楚は斉に使者を遣り、太子横の返還を求めた。
このとき、屈原はこれまでに培った人脈を活かし、
宰相の孟嘗君(田文)ら斉の要人にはたらきかけたであろう。
それが功を奏し、太子横は帰国し、楚王に即位した。これが、頃襄王である。
こうなると、空質になった懐王はみじめなものである。
懐王は、監視の隙をみて秦から脱出し、趙へ逃げた。
しかし、趙に受けいれを拒否されて、こんどは魏へゆこうとしたところ、秦の追っ手に捕まって連れ戻され、
怒りと絶望から発病し、秦で客死した。
大国の王であっても、ものごとの本質をみぬく努力を怠り、他人の言に流されてしまえば、
悲惨な末路を免れ得ない。
さりとて、秦に騙されて死んだ懐王に、楚人は同情し、秦を恨むことになる。

失 脚

頃襄王は、弟の子蘭を令尹(首相)にした。
――懐王に秦へ往くように勧めたのは、子蘭である。
と、国人は非難した。
特に子蘭を憎んでいたのが、屈原であった。
懐王の帰国を心から望んでいた屈原は、体貌から怨色をあらわした。
子蘭はそれを感じ取ったらしく、上官大夫に頃襄王の耳に屈原の悪口を吹きこませた。
頃襄王の帰国に際して、屈原の寄与は決して小さくなかった。
懐王とちがって頃襄王に少しでも慧性があれば、上官大夫の言に虚があると看抜けよう。
ところが、頃襄王は、
「けしからん」
と、怒声を放ち、屈原を追放してしまったのであるから、血は争えない。
屈原は、野に下らざるを得なかった。

愛国心

「楚材晋用」
という語がある。
春秋時代には、楚出身の有為の人材が北方の大国である晋で重用された。
そのなかのひとりである巫臣(屈巫)は、屈氏であった。
実力主義の戦国時代にあっては、どの国でも、有能な他国出身者が登用され、国政を任される例が少なくない。
だが、屈原は失脚しても、他国へ去らなった。
罪なくして放逐されたとはいえ、王と国の行く末が案じられたからである。

高潔の志

屈原が髪をふり乱して、詩を吟じながら、江水のほとりを歩いていると、
「三閭大夫じゃありませんか。どうしてこんなところへ」
と、漁父から話しかけられた。
三閭大夫は、楚の王族である屈氏・景氏・昭氏の三族を管掌する官職であるらしい。
「世の中すべてが濁っていて、われのみが清い。衆人がみな酔いしれ、われのみが醒めている。
それゆえ、追放されたんじゃ」
屈原がそう返すと、漁父は首をかしげながら、
「聖人はものごとにこだわらず、世俗とともに移ろえます。
世の中こぞって濁っているなら、どうしてその流れに従って波をあげないのですか。
みなが酔いしれているなら、どうして酒かすを食べて、上澄みをすすらないのですか。
美玉をいだきながら、どうしてみずから追放されるようなことをなさったのですか」
と、訊いた。そこで、屈原は、
「きれいな身に、汚いものをかぶせられようか。
そんなことをするくらいなら、江水にはいり、魚の腹に葬られたほうがましじゃ」
と、気取っていった。
――信念を枉げて生きるくらいなら、死んだほうがよい。
そう信じる屈原は、大湿地帯をさまよったあげく、頃襄王二十一年(紀元前二七八年)に
郢都の陥落をきき、絶望のあまり、石を抱いて、湘江の支流である汨羅に身を投げた。
屈原は最後まで国を愛し、節義に殉じた激情家であった。

屈原の詩賦は、辞賦を愛好した漢の武帝のときに、朝廷内や文人たちのあいだで流行した。
かれは生前は不遇であったが、不朽の名作の作者として後世に名を遺し、
その生き様は時を越え、いまなお多くの人の心を打ってやまない。

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