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中国史人物伝

孟嘗君の父 食客愛好家の先駆者 靖郭君 田嬰(戦国 斉)(1) 絶頂と危機

戦国四君のなかで最初に登場した孟嘗君(田文)は、

三千人もの食客を養い、よく遇し、よく用いたという。

これには、父の田嬰(靖郭君)の影響があったらしい。

『史記』によれば、田嬰は斉の威王の末子で、宣王の異母弟である。

田嬰は若いころから聡明であったらしく、威王のときから要職に就いて国事を預かった。

かれは王子という高貴な身分に甘んじることなく、よく学び、よく考えた。

それでも、おのれの能力に限界を感じた。

そこで頼りにしたのが、食客であった。

かれはいくたびも窮地に陥ったが、そのたびに食客たちに助けられ、危機を脱した。

中国史人物伝シリーズ

東海に奏でた琴の音 鄒忌(騶忌)(1) (2)

目次

馬陵の戦い

紀元前三四二年、魏が韓を攻めた。
斉の朝廷を韓からの使者が訪れ、援軍を要請してきた。
斉はこれに応じ、田忌を将とする援軍を出した。
田嬰は、その佐将に任じられた。
田忌は孫臏の計を用いて魏軍を馬陵で敗り、魏の将軍龐涓を殺し、魏の太子申を捕虜にした。
しかし、田忌は長年反目を続けていた宰相の鄒忌(騶忌)に帰還を阻まれ、楚へ亡命した。
田嬰は斉にもどることができたが、
――あれほどの将器を、他国に使わせるわけにはいかぬ。
と、田忌の旗鼓の才を惜しみ、威王が亡くなると、あとを継いだ宣王に進言し、田忌を斉に復帰させた。

斉の宰相

説 述

「寡人(諸侯の一人称)にも、管仲のような臣がおればなぁ」
あるとき、斉王(威王あるいは宣王)がふと漏らしたこのひと言が、
――王は、天下に覇を唱えたいんじゃ。
と、察した田嬰の心に火をつけた。
これまでは、春秋時代の晋を継承した魏が、天下に覇を唱えていた。
しかし、このごろは、西隣の秦にしきりに攻められて西辺の地を削り取られたばかりか、
斉とも二度戦って二度とも敗れている。
斉王が覇者になるということは、魏を斉の盟下にするということにほかならない。
「韓君と魏王を、斉に参朝させよう」
田嬰はそう意気込んで、紀元前三三六年に韓を聘問した。
韓に関しては、まえに援けた経緯があるので、説くのにさほど骨が折れなかった。
――つぎは、魏じゃ。
とばかりに意気揚々と魏に乗り込んだ田嬰であるが、魏の恵王を説くのには苦心した。
なにしろ、魏は長く諸侯の盟主であった。その矜持が、他国に頭をさげさせない。
田嬰はいったん交渉を打ち切り、斉にもどった。
――こりゃあ、けっこう難儀するぞ。
というのが、正直な感想である。

阿の会同

ところが、ほどなくして、魏からの使者が田嬰を追いかけるように斉を訪れてきた。
「斉に参朝させていただきたい」
という魏王らの申し出をきいて、田嬰は
――粘り強く交渉したかいがあった。
と、胸をなでおろし、
「お聴きいれあそばされませ」
と、斉王に進言した。ところが、そこに、
「なりませぬ」
と、口を差しはさむ者がいた。
「たれじゃ」
田嬰は、不機嫌そうに声の主のほうをむいた。
説客の張丑であった。
「戦って魏に勝つことがなく、参朝の礼を受けてともに楚を伐てば、大勝できましょう。
ところが、いま斉は魏に大勝し、十万の軍を破り、魏の太子申を殺し、
万乗の国である魏を臣として秦や楚を見下げようとしております。それは向こう見ずというものであります。
それに楚王は戦を好み、名分にうるさい人です。斉に患いをなすのは、きっと楚でありまょう」
田嬰がどれだけ説いても頑なに首をたてにふらなかった魏王が突然翻意した裏には、
計謀があるとみるべきであろう。
つまり、魏は斉に心服したわけではなく、斉を楚と戦わせようとしている。
魏の真意をそう見抜いた張丑の深慮は、
――われの熱意が魏王を動かしたんじゃ。
と、おもいこんでいる田嬰の胸には響かず、斉国内に魏と韓の君主を招き、
斉王が会同を主宰する運びになった。
「嬰よ、両君をお迎えいたせ」
という斉王の声に弾かれて、田嬰は魏の恵王と韓の昭侯を会同の地にいざなった。
会同の地は、史書には東阿とも平阿とも書かれるが、斉国内にあって魏の国境に近い。
その邑の南で、斉王は魏の恵王と韓の昭侯と会同をおこなった。
この会同の意義は大きい。
それ以降、斉が魏に代わって覇者になったからである。
斉王は、翌年にも甄で魏の恵王とふたたび会合した。
この成果は斉王を大いに喜ばせ、紀元前三三四年、田嬰は斉の宰相に任じられた。
おのれの功に酔いしれた田嬰であるが、かつて張丑にされた警告をすっかり忘れてしまっていた。

危 機

諸侯は国内では王と称しながら、対外的には周王をはばかって君と称していた。
紀元前三三四年、斉王は魏の恵王と徐州で会同をおこない、
「もう、名分にこだわるのはよそうではないか」
という話になり、たがいに王号を称した。これが、
――王号を称することができるのは、楚と周だけじゃ。
と、自負する楚の威王を刺戟した。
翌年、斉は楚軍に攻めこまれた。
田嬰は、申縳を将に起用して楚軍を徐州で邀撃させた。
だが、奮戦むなしく、敗れてしまった。
その後、斉の朝廷に楚の威王からの使者がやってきて、
「田嬰を追放なされよ」
と、要求してきた。
――内政干渉ではないか。
田嬰は怒りでからだをふるわせたものの、楚軍を去らせるすべを知らず、
「臣は、去ります」
と、斉王に申し出た。そこに、
「早まってはなりませぬ」
と、話しかけてきた者がいた。張丑であった。
「ああ、あのとき、あなたのおっしゃったことを聴かなかったばかりに、こんなことになってしもうたわ」
そう自嘲した田嬰に、張丑はゆるやかに首を横にふり、
「われを楚王のもとに使いさせてくだされ。楚軍を去らせてみせましょう」
と、申しでた。
「かたじけない」
田嬰は喜び、張丑を威王のもとへ送りこんだ。
「田嬰が追放されたら、きっと田盼が起用されましょう。
田盼は国に功があり、人民を手足のように使いこなすことができます。
田盼がふたたび士卒を整え、王と会戦することになりますれば、王にとって都合が悪いのではないでしょうか」
張丑がそう説くと、威王は田嬰を追放する要求を取りさげて、斉から去っていった。
田嬰は、危機を脱することができた。

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