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中国史人物伝

『楚辞』の作者 国を愛し、節義に殉じた中国初の詩人 屈原(戦国 楚)(1) 離騒

昭和47年(1972年)9月、国交を正常化すべく中国を訪れた田中角栄首相は、

夜分に突如毛沢東主席の書斎に招かれ、「楚辞集註」を贈呈された。

これは、戦国時代の楚の政治家で詩人でもあった屈原(屈平)らの詩賦を集めた『楚辞』に

宋代の儒者朱子(朱熹)が注釈を加えたものである。

書物中毒を自称した毛主席が、なぜ田中首相にこの書を贈ったのかはわからない。

毛主席の出身地である湖南省は、戦国時代は楚の領地であった。

屈原は西方の強大国秦からの脅威に、斉と結んで対抗しようとしたが、

親秦派の讒訴により、失脚の憂き目に遭った。

罪なくして追放され、政治に参与できなくなった苦しみを詩に昇華させた屈原は、

大湿地帯をさまよったあげく、国都の陥落を知り、絶望のあまり川に身を投げた。

激情家であったかれの詩は、時を越え、多くの人びとの心を打った。

屈原は最後まで国を愛し、その行く末を案じた高潔の士として、今なお敬愛されている。

注:本名は屈平である(原はあざな)が、人口に膾炙している屈原で通す。

中国史人物伝シリーズ

目次

離 騒

楚が最盛期を迎えたころ、懐王を輔政した多士済済の面々のなかに、若き左徒の屈原がいた。
のちに春申君(黄歇)が左徒から令尹(首相)へ昇ったこともあり、左徒は高位とされる。
だが、実際のところ、その職掌はよくわからない。
屈原は博覧強記で、治乱の道理に明るく、辞令(応対のことば)に通じていた。
そのため、屈原は懐王から信任され、王と国事を論じて命令を出したり、外国からの来賓に接遇したりした。
楚の武王の子屈瑕を始祖とする名族の出とはいえ、破格の抜擢であった。
そんな屈原をこころよくおもわない者は、少なくなかったであろう。
そのひとりが、上官大夫の靳尚であった。
屈原が、法令の草案を書いていた。そこに靳尚が、
「あとは、われにまかせてくれないか」
と、いって、草稿を取りあげようとしてきた。だが、屈原は、
「なにをする」
と、叱呵し、草稿を渡さなかった。
靳尚は恨み、懐王に屈原を讒言した。
君主たる者、日ごろ群臣の行蔵を観ていれば、その真偽を見抜けよう。
だが、観照力に乏しい懐王は、靳尚の言を鵜呑みにしてしまった。
屈原は遠ざけられてしまい、おもに外交を担うようになった。
屈原は、よこしまな者が君側に侍り、正しい者が容れられない国情に慨嘆し、その不条理を詩に託した。
これが、『離騒』である。

張 儀

当時の外交課題は、富国強兵を果たし、伸張著しい秦への対応である。
――斉と結んで秦に対抗する。
これが屈原の意見であり、楚の外交政策でもあった。
それが、ひとりの弁士によって、くつがえされてしまう。
懐王十六年(紀元前三一三年)、張儀が秦からやってきて、
「斉と断交すれば、領地を献じます」
と、懐王にもちかけてきた。
懐王はそれを真に受けて斉と断交したが、張儀は領地を献呈しなかった。
懐王は怒り、大軍を発して秦を攻めたが、大敗し、広大な領地と多数の兵を失ってしまった。
懐王十八年(紀元前三一一年)、秦が奪い取った領地の返還と和睦を楚に申しいれてきた。
「土地はいらん。張儀をよこせ」
懐王がそう希望すると、張儀が臆面もなく楚へやってきた。
張儀は捕えられたが、靳尚らに贈賄してとりなしてもらい、懐王に許された。
このとき、屈原は斉へ使いし、国交回復交渉にあたっていた。
――張儀は、殺された。
そうおもって楚の都の郢に帰ってきたところ、
――王が張儀を許し、帰国させた。
と、きかされておどろき、ただちに懐王に拝謁し、
「どうして張儀を殺さなかったのですか」
と、つめよった。
懐王は後悔し、張儀に追っ手をさしけむたが、及ばなかった。

会 同

その後、屈原のはたらきが実り、楚は斉と国交を回復した。
しかし、秦の昭襄王が即位し、楚に手厚く贈り物をすると、
懐王はまたも斉と断交して秦と結び、秦から婦(正夫人)を迎えた。
懐王二十五年(紀元前三〇四年)に、懐王は秦へゆき、昭襄王と黄棘で会盟した。
翌年、斉が韓や魏とともに攻め込んでくると、懐王は太子横を秦へ人質に出して保庇を求めた。
ところが、太子横が秦の大夫と私闘をして逃げ帰ってきたことで、秦との関係がこじれてしまい、
懐王二十八年(紀元前三〇一年)、秦が斉・韓・魏を誘って楚に攻めこんできた。
翌年にも、楚は秦に攻められて大敗した。
懐王は恐れて、太子横を斉へ人質に出して和平を求めた。
懐王三十年(紀元前二九九年)にも楚は秦に伐たれ、八城を奪われた。
そこに昭襄王から書翰が届き、
「武関でお会いし、盟約しましょう」
と、誘ってきた。
「秦は虎狼の国で、信用できません。お出かけにならないほうがよいでしょう」
屈原は、懐王にそう述べた。大臣の昭雎も、同じようなことをいった。
しかし、王子の子蘭が、
「秦との交誼を絶ってもよいのですか」
と、父に出立を勧めた。
懐王は迷ったあげく、武関へ往った。

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