Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//陳寿の師 劉禅に降伏を勧めた博識の儒者 譙周(三国 蜀)

中国史人物伝

陳寿の師 劉禅に降伏を勧めた博識の儒者 譙周(三国 蜀)

正史『三国志』の著者である陳寿は、

譙周(あざなは允南)(?-270)

に師事した。

譙周は、蜀漢の皇帝劉禅に魏への降伏を勧めたことで知られ、

物語の『三国志』では、諸葛亮孔明に不吉な天文現象を告げて北伐を止めたりするなど、

損な役回りをさせられているような気がする。

譙周は、孔明と同じ八尺(約193cm)もの長身の持ち主で、

陳寿から"世の碩儒"と評され、見識のある人物であった。

中国史人物伝シリーズ

目次

苦 学

譙周は巴西郡西充国の出身で、幼くして父を亡くし、家は貧しかった。
長じてからは古昔のことに夢中になり、寝食も忘れるほど学問に励み、
六経を詳細に研究し、文章の解釈に通暁し、天文にも明るかった。
八尺もの長身に茫洋とした風貌を有し、誠実で飾り気がなく、
不意に問われて即答できるほどの機転はなかったが、見識を内に秘め才知にすぐれていた。

仕 官

譙周は、丞相の諸葛亮に見出されて、勧学従事に任じられた。
かれが諸葛亮に初めて会った時、左右の者がかれをみて吹き出した。
退出後、役人が笑った者の処罰を願い出たが、諸葛亮は、
「わしでさえ我慢できなかったんだから、仕方なかろう」
と、庇い、不問に付した。
譙周は、忠実および質素を旨として行動した。
はじめ、譙周と交際した者は少なかったが、『季漢輔臣賛』を著した楊戯(楊儀とは別人)だけは、
「われらの子孫は、この長児(のっぽ)に劣るであろう」
と、称揚し、譙周を敬重した。
諸葛亮が敵地で没したと聞くと、譙周はすぐに成都を発ち、弔問に駆けつけた。
蔣琬が大将軍になると、典学従事に転じ、益州の学者を総轄した。

ご意見番

延熙元年(二三八年)、劉璿が太子に立てられると太子僕になり、後に太子家令に転任した。
劉禅が頻繁に遊びに出かけたり、宮中の歌手や楽員を増やしたりすると、譙周はそれを諫めた。
譙周は後に中散大夫に転任しても、劉璿に近侍しつづけた。
費禕の死後、姜維がしきりに出兵し、人民は疲れ切っていた。
譙周は、『仇国論』を著し、出兵に反対した。
譙周は、光禄大夫(論議をつかさどる官)に昇った。
譙周は政事に関与しなかったものの、博識の儒者として礼遇され、
重大事につき諮問を受ければ、経典を論拠に奉答した。
譙周は、『法訓』『五経論』『古史考』などを著し、大儒として名声を得て、多くの弟子をかかえた。
そのひとりが、陳寿であった。

蜀漢滅亡

景耀六年(二六三年)の夏に、魏が蜀に攻め入った。
朝廷は秋に炎興に改元したが、魏軍を撃退できないばかりか、冬には鄧艾に江油を突破された。
姜維率いる主力軍は、剣閣で鍾会軍を防いでおり、
――敵はすぐにはやってこないだろう。
と、劉禅らが楽観していたため、成都周辺に備えがなかった。

勧 説

鄧艾が陰平に侵入したと聞いてから、劉禅はようやくあわてて群臣を集め、論議させた。
「同盟国の呉へ奔るのがよろしい」
「南方へ逃れましょう」
などと主張する者がいるなか、譙周だけが、
「古より、他国に身をよせながら天子であった者はおりません。もし呉へゆけば、臣従しなければなりません。
魏は呉より大きいので、魏は呉を併呑できますが、呉が魏を併呑できないのは明白です。
同じ臣と称するなら、小国の臣となるより、大国の臣になるほうがましでしょう。
恥辱は二度も受けるより、一度きりの方がよいでしょう。
もし南方へ逃れるつもりなら、もっと早くから手を打っておくべきでした。
いま、大敵が接近し、災禍がいまにも降りかかろうとしており、小人たちは動揺しております。
南方へ発つ際には、どんな変事が起こるかわかりません。南方へ行きつくことなどできましょうや」
と、魏への降伏を勧めた。しかし、なかには納得できず、
「いま鄧艾は遠くないところまできており、降伏は容れてもらえないのではないですか」
と、譙周に詰め寄る者がいた。
「いまは東呉がまだ服していないから、降伏を容れないわけにはいかず、
容れれば礼遇しないわけにはまいりません」
譙周は冷静に反駁し、
「もし陛下が魏に降られたのに、魏が領土をわけて陛下を諸侯にしないなら、臣が洛陽へ参り、説きましょう」
と、念を押した。
譙周の意見は理にかなっているばかりか、
――戦いたくないし、あまり恥辱を受けたくない。
という劉禅の意望にも沿っていた。
劉禅は、鄧艾に降伏した。
降伏は容れられ、蜀の君臣は粗略な扱いをされなかった。
翌年、劉禅は成都を発ち、洛陽へむかったが、譙周は随行しなかった。
――われは、蜀人なり。
という矜持がそうさせたのかもしれない(劉禅や重臣らは、「よそ者」であった)。

晋の臣

譙周は、劉禅に降伏を勧めたことを魏の実権を握っていた司馬昭に称賛されて、
陽城亭侯に封じられ、上洛するよう命じられた。
譙周は、成都を発った。
しかし、漢中に到ると、発病して進めなくなった。
咸熈二年(二六五年)夏、譙周は病牀を訪れた文立に、
「典午(馬をつかさどる官)は忽として月酉に没す」
と、謎をかけた。
とりの月である八月になると、司馬昭が死去した。
その子司馬炎は、皇帝になると、何度も詔を発し、譙周に上洛を促した。
泰始三年(二六七年)、譙周は病身を車に乗せ、洛陽へ到った。
病牀のまま騎都尉(宮中所属の武官)を拝命した譙周は、
「功もないのに封土を受けてしまいました。爵位と封土をお返しいたします」
と、陳上したが、聴許されなかった。

本 懐

譙周の病は、篤くなるばかりであった。
泰始五年(二六九年)、譙周は、帰郷の挨拶に訪れた陳寿に、
「孔子は七十二歳、劉向や揚雄は七十一歳でこの世を去った。われは七十歳を過ぎた。
できれば孔子の遺風を慕い、劉向や揚雄と軌を同じくしたいものじゃ。
おそらくつぎの年にきっと長の旅路に出るじゃろうて、もう会うことはないじゃろう」
と、訣れを告げた。
泰始六年(二七〇年)秋、譙周は散騎常侍(皇帝の側近)となったが、重病ゆえ拝命せず、冬に亡くなった。
「久しく罹病し、一度も朝見しなかった。朝服や衣類などを賜っても、身に被せてはならぬ」
譙周は、子にそう遺言したという。
質素を旨としたかれらしいといえようが、晋に仕えてはいるものの、
――身は、漢朝の臣たらん。
というのが、かれの本懐であったのではなかろうか。

予 言

先達の杜瓊は、天文を視て予言したりしなかった。譙周がそのわけをたずねると、
「この術は大変難しく、自分で視て形と色を識別しなければならず、人を信じてはならない。
夙夜懸命にやってようやくわかるんじゃが、わかると漏泄しないか憂えてしまう。
それなら知らないほうがましじゃとおもうから、もうしないんじゃ」
と、答えた。
「昔、周徴君(蜀の学者 周舒)は、当塗高は魏なり、と述べましたが、どんな意味ですか」
譙周がそうたずねると、
「魏は闕(宮城の門)の名で、塗(道)に当たって(むかって)高くそびえている。古は官職を曹といわず、
漢代以降、官(役所)を曹、吏(役人)を属曹、卒(下級役人)を侍曹というようになった。
これはほとんど天意じゃ」
という答えが返ってきた。
――天命は、魏の曹氏にある。
譙周は杜瓊の言をもとに、つぎのように述べた。
「先帝の諱は備で、終結するという意である。主上の諱は禅で、授けるという意である。
劉氏はすでに終結した。人に授けるべし。後漢の霊帝の子よりひどい名づけ方ではないか」
勇気ある発言であろう。
この頃、劉禅が黄皓を寵愛し、政務をみなくなっていた。
譙周は国の行く末を悲観し、憂国の情にかられてそう述べたのかもしれない。
景耀五年(二六二年)に、宮中の大樹が自然に折れた。
譙周はこれを深く憂えたが、話す相手がいないので、
「衆(曹)にして大(魏)であれば、約束した日に人が集まる。終結して授けたら、どうやって戻せようか」
と、柱に書きつけた。これについて、譙周は後に、
「これは、杜君(杜瓊)の辞をおしひろげただけである」
と、述懐した。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧