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中国史人物伝

蜀漢 最後の砦 費禕(三国 蜀)

長き夜や 孔明死する 三国志

正岡子規をはじめ、『三国志』が好きな日本人は古今問わず多い。

『三国志』を読み進め、蜀漢の丞相 諸葛孔明が五丈原で陣没したところで

嘆息してしまう人も少なくないのではなかろうか。

物語の『三国志』には、孔明の死で終わってしまうものもあるため、

孔明の死後蜀漢、そして天下がどうなるのか気になってしまうものである。

結論をいえば、蜀漢は孔明の死後三十年続く。

しかも、孔明の死後、急速に衰退したわけではなく、

北伐をやめ国力の充実を図ることで命脈を保ち得たのである。

ところが、ある人物の死後、滅亡への一途をたどることになった。

中国史人物伝シリーズ

目次

蜀 へ

費禕(あざなは文偉)は、江夏郡鄳県の出身で、幼い頃に父を喪い、親族である費伯仁を頼った。
伯仁の姑が、益州の牧(州の長官)である劉璋の母であった。
費禕は、劉璋に招かれた費伯仁に連れられて蜀へ行った。

孔明の薫陶

劉備が劉璋に代わって蜀を治めるようになっても益州にとどまった費禕は、劉備が劉禅を皇太子に立てたとき、太子舎人(家来)となり、次いで太子庶子(側近)に昇進した。
建興元年(二二三年)、劉禅が皇帝に即位すると、黄門侍郎(勅命を伝える官)に任じられた。
劉備の死後、蜀の政治は大小問わず、丞相の諸葛亮がすべて決定した。
二年後、南征から凱旋する諸葛亮を、役人が出迎えた。その中で費禕の年齢や地位はともに低い方であった。
そんな目立たない存在であったはずの費禕を、諸葛亮は指名して車に同乗させた。
諸葛亮は費禕を高く評価し、費禕を使者として呉に派遣した。
呉へゆくと、孫権や諸葛恪らから論戦を仕掛けられたが、費禕は礼を外さず誠実に論理立てて答え、
決して屈服しなかった。孫権は費禕を高く評価し、
「君は、蜀で股肱の臣となるであろう」
と、称めた。孫権に気に入られた費禕は、何度も呉への使者となった。
帰国すると、侍中(近侍の官)に昇進した。
建興五年(二二七年)、諸葛亮は北伐を開始すると、費禕を参軍とした。
三年後に中護軍となり、後に司馬となった。
費禕にとって、諸葛亮の帷幄にあって常に間近にいることで感化された部分が少なくなかったであろう。
諸葛亮は、事務方を担当する長史の楊儀の才を愛すとともに、将軍の魏延の剛勇を頼みにしていた。
しかし、ふたりは反目し合い、魏延が刀を突きつけ、楊儀が涙を流すことがあった。
費禕はいつも二人の席の間に入り、諫め諭した。
気難しいところがある二人であるが、費禕の気さくさに触れ、心を許せる部分があったかもしれない。

異 能

建興十二年(二三四年)に諸葛亮が亡くなると、費禕は後軍師となり、翌年に蔣琬が大将軍・録尚書事になると後任の尚書令となった。
延熙元年(二三八年)に蔣琬が漢中に駐屯すると、費禕が留守政府の責任者となった。
劉禅は蔣琬を信任し、大小かかわらずすべての国事を漢中にいる蔣琬に諮問してから決定し、実施した。
しかし、三年後、蔣琬が北伐を計画すると、費禕は反対し、劉禅の使者となって漢中へ赴き、蔣琬を説得し、 北伐を思いとどまらせた。
延熙六年(二四三年)、蔣琬が罹病し、漢中から涪へ戻ると、
費禕が大将軍・録尚書事、董允が尚書令にそれぞれ昇進した。
費禕は、書類をひと目みただけでその内容を理解できた上に、決して忘れなかった。
費禕が尚書令であったとき、多忙であったにもかかわらず、昼間は客に会ったり遊んだり博奕までしながら、 朝と夕のみ仕事をしたが、仕事に支障をきたさなかった。
ところが、董允が尚書令になってから費禕のまねをすると、十日もしないうちに仕事が滞ってしまった。
「人の能力がこれほどかけ離れていようとは。われはとても及ばない。
一日中かかりきりで仕事をしても、全く余裕がないのだから」
董允がそう嘆くしかなかったほど、費禕の処理能力は優れていた。

興勢の役

延熙七年(二四四年)、魏の曹爽が十余万の兵を率いて漢中に侵攻した。
この時、蜀の主力は涪にあり、漢中の守備兵は三万に満たなかった。
そのため、成都から漢中へ援軍を送ることとし、援兵を費禕が率いることになった。
出陣をまえにした費禕のもとへ、光禄大夫の来敏が訪れ、
「囲碁をしましょう」
と、誘ってきた。
対局の最中、軍兵召集の至急文書が飛び交い、将士が甲冑をつけ、戦車の準備も終わっていたにもかかわらず、費禕は対局に集中した。その落ち着き払った様子に、来敏は、
「あなたは必ず賊軍を破ることができましょう」
と、太鼓判を押した。
この頃、王平が興勢山で魏軍を食い止めていた。
費禕が援軍を率いて戦場に到着すると、魏軍は撤退した。
興勢の役と呼ばれるこの戦いでの功により、費禕は凱帰すると成郷侯に封じられた。
その後、蔣琬の病が重くなり、益州刺史を辞職すると、費禕に益州刺史を兼ねさせた。
その権限は、現在の日本の総理大臣と都知事を兼ねたような強大なものになった。

政 策

延熙九年(二四六年)に蔣琬が亡くなると、名実ともに費禕が政治の実権を握ることになった。
翌年、姜維が衛将軍・録尚書事になり、費禕に次ぐ地位となった。
姜維は、自分に軍事の才があると誇っており、常々魏を討ちたいと望んでいた。
費禕は、姜維が大軍を率いようとするたびに、
「われらは諸葛丞相にはるかに及ばない。その丞相でさえ中原を平定できなかった。われらにできようものか」
と、諭し、一万の兵しか与えなかった。
費禕は、外征を控えて内政に専念し、人民を安んじて国力の保持を図ったのである。
延熙十一年(二四八年)に王平が亡くなると、費禕は出兵し、漢中に駐屯した。
劉禅は費禕を信任し、国の恩賞・刑罰はすべて漢中にいる費禕に諮問してから決定し、実施した。

宰相の気

延熙十四年(二五一年)夏に費禕は成都に帰ったが、占師が雲気を視て、
「都に宰相の気がなくなっている」
と、告げたので、冬に成都を出て、北のかた漢寿(葭萌関)に駐屯した。
翌年、大将軍府を開くことを許された。
延熙十六年(二五三年)正月に、費禕は漢寿で新年を祝う宴会を開いた。
費禕は、その席で酔いつぶれたところを魏の降人・郭循(郭脩)に刺殺された。
費禕は他人に寛大で、帰服したばかりの者をも信用していた。
そのため、張嶷から刺客を警戒するよう忠告されていたが、果たして凶刃に倒れ、横死してしまった。
郭循は姜維が西平に侵攻したときに捕えられ、劉禅に赦されたものの蜀漢に心服したわけではなく、
いつも劉禅を刺殺しようと狙っていたが、果たせず、標的を費禕に変えたらしい。
その後、魏の皇帝曹芳は、
「郭脩(郭循)はわが身を犠牲にして仁を成し遂げ、生命を捨てて信義を選び取った」
と、その忠義を激賞し、長楽郷公を追封し、領邑を与えたことから、降伏は佯りであったことがうかがえる。
費禕は慎み深く質素で、家に蓄財することはなかった。

蜀漢その後

費禕の死後大将軍となった姜維が北伐をしきりに敢行し、国力を疲弊させていった。
国内では、劉禅の寵愛を受けた宦官の黄皓の専横を許してしまい、劉禅の放恣を止める者がいなくなり、
費禕の死後十年が経った炎興元年(二六三年)に蜀漢は魏に滅ぼされてしまった。

諸葛亮、蔣琬、費禕、董允を、蜀(漢)の四相と呼ぶことがある。
その中で最後まで生きていた費禕の死後、それに続く賢臣がいなかった蜀漢は衰退の一途を辿るしかなかった。

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