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中国史人物伝

硬骨漢か主君を裏切った笑い者か 潘濬(三国 呉)

三国時代の蜀の楊戯(楊儀とは別人)は、

『季漢輔臣賛』を著し、蜀の君臣を称賛したが、

麋芳
(傅)士仁
郝普
潘濬

は、蜀を裏切ったため、笑いものにされた、と記された。

潘濬(あざなは承明)(?-239)

は、蜀から呉へ移り、孫権に重用されて太常(祭礼担当大臣)に昇り、

――節操を貫き、大丈夫として最高の仕事を成し遂げた(『三国志』呉書)。

と、正史に評された。

立場の違いで真逆の評価が併存してしまうのは、乱世のなせるわざであろうか。

中国史人物伝シリーズ

楊戯が称揚し、敬重した 譙周

目次

劉備の信任

潘濬は荊州武陵郡漢寿出身で、二十歳ころに宋忠という学者に学んだ後、
荊州牧の劉表に辟かれて江夏郡の従事に任じられた。
かれが、賄賂を受け、汚職を行っていた沙羡県長を死刑に処すると、郡中の吏民は震撼した。
のちに湘郷県令に転じ、高い評価を受けた。
劉備が荊州を治めるようになると、潘濬は治中従事(州刺史補佐)に任じられた。
劉備が蜀に入ると、潘濬は荊州の行政を任されたが、
士大夫に対して傲慢な態度をみせる董督荊州事(荊州軍事総督)の関羽とは折り合いが悪かった。

呉に仕える

建安二十四年(二一九年)、孫権が荊州を降した。
劉備に信任されていた潘濬は、病と称して孫権に会おうとしなかった。
潘濬は呉兵に牀の上に乗せられ、担がれたまま孫権のもとへ連行された。
潘濬は牀の上に突っ伏したまま起きあがろうとせず、涙を流して泣いた。
「承明どの」
と、孫権は潘濬をあざなで呼び、
「むかし観丁父は鄀が滅ぼされると捕虜になったが、楚の武王は将に取り立てた。
彭仲爽は申が滅ぼされると捕虜になったが、楚の文王は令尹(首相)に任じた。
二人は荊州の先賢で、捕虜になったが、後に擢用され、楚の名臣になった。
なのに、卿だけは降ろうとせん。孤(諸侯の一人称)に古人ほどの器量がないとお思いか」
と、話しかけ、近臣に命じて手巾で潘濬の顔を拭わせた。
潘濬は身を起こして牀をおり、拝謝した。
潘濬はその場で治中従事に任じられ、荊州の軍事について諮問を受けるようになった。
潘濬は輔軍中郎将に任じられ、兵を授けられた。
さらに、奮威将軍に遷り、常遷亭侯に封じられた。

樊伷を斬る

劉備が、関羽の弔い合戦と称して呉を攻めようとしていた。
潘濬は旧主に靡かなかったが、武陵郡の従事である樊伷は、武陵の蛮夷を誘って劉備に呼応する動きをみせた。
潘濬は孫権に召し出され、
「武陵から一万の援軍を要請されたが」
と、諮問を受けた。
「五千の兵を差し向ければ、樊伷を擒にできましょう」
潘濬がそうあっさりと返したところ、
「なにゆえ卿はこれを軽んじるのか」
と、孫権はいぶかった。
「樊伷は南陽の名族で、口は達者ですが、弁才はございません。かつて、
かれが同郷の者を宴に招いたとき、日中になっても食事ができず、十回以上も様子を見に行ってました。
侏儒(こびと)の身長は、からだの一部をみただけでわかるものです」
孫権は大いに笑って、潘濬の意見を容れた。
潘濬はすぐに五千の兵を率いて武陵へむかい、樊伷を斬って叛乱を平定した。

和して同ぜず

黄武五年(二二六年)に芮玄が死去すると、潘濬は芮玄の軍勢を併せて夏口に駐屯した。
黄龍元年(二二九年)に孫権が皇帝になると、潘濬は少府(宮内大臣)を拝命し、
劉陽侯に昇進し、ほどなく太常に遷った。
さらに、孫権が建業へ遷都すると、陸遜とともに旧都武昌の守備にあたった。
潘濬は女を次男の孫慮の夫人に迎えられるほど孫権に信頼されたが、決して迎合しなかった。
「雉狩りはおやめください」
潘濬がそう諫めると、
「時々出かけるだけで、前のようにしょっちゅうやっておらん」
と、孫権が弁解した。しかし、潘濬は、
「天下はまだ定まっておらず、なすべきことが多うございます。
雉狩りは不急のことで、弓の弦が切れても矢括(矢はず)が壊れても、害を被ります。
どうか、おやめいただきますよう」
と、重ねて諫言を呈した。
孫権は、それ以後再び雉狩りをしなくなった。
黄龍三年(二三一年)二月に武陵の五谿の蛮夷が叛乱を起こした。
潘濬は仮節を授けられ、五万の兵を率いて討伐した。
潘濬は信賞を必ず実行し、法を犯せば罰したので、斬首したり捕えたりした敵が数万にのぼった。
叛乱の平定に三年以上もかかったが、以後、蛮夷は衰弱し、武陵は平穏になった。

先 見

潘濬は法を重んじ、世評を気にしなかった。
「歩騭が募兵して兵を増やしたいと申しておるが」
あるとき、孫権からそう諮問されると、潘濬は、
「部将が大きな勢力をもてば、周辺に害をなします。
それに歩騭には名声があり、地元の役人が媚びてまいりましょう。
お聴きいれあそばされぬよう」
と、応えた。孫権はこれに従った。
中郎将の徐宗は、評判が高かった。
しかし、家臣を甘やかして衆人を困らせていたため、潘濬は徐宗を斬った。
黄龍二年(二三〇年)に、魏の隠蕃が呉に投降した。
隠蕃は口弁の才により豪傑に気にいられ、潘濬の子の潘翥も隠蕃と交際した。
潘濬はこれを聞くと大いに怒り、潘翥に書を送って責めた。
「われは国から厚恩を受け、生命をかけて報いたいとおもうておる。
なんじは都にいて、恭順して賢人に親しみ善人を慕うべきじゃ。
それなのに、なにゆえ降虜なんぞと交わろうとするのか。
遠くにあってこのことを聞くと、心は震え顔は熱くなり、旬日経っても怒りが募るばかりじゃ。
書が到れば、急ぎ使者のもとへゆき、杖で百回打たれてこい。それから、贈物も取り返してこいよ」
みなが潘濬のしうちを訝しんだが、のちに隠蕃が謀叛を図って誅殺されると、感服した。

呂壱事件

潘濬の妻の兄である蔣琬は、諸葛亮(孔明)の死後、蜀の大将軍になった。
「潘濬はひそかに蔣琬に使者を遣り、蜀へ戻ろうとたくらんでおります」
武陵太守の衛旌がそう上表すると、孫権は、
「承明どのは、そんなことはせぬ」
と、封をしたまま潘濬に転送した。
このように潘濬は孫権から信頼されたが、当時孫権に最も寵愛されたのは、呂壱であった。
呂壱は、丞相(首相)の顧雍や左将軍の朱拠ら重臣の過失を責める奏上をおこなった。
孫権はそれを信じ、顧雍らを遠ざけた。
――陛下を、お諫めせねばならぬ。
潘濬は堪え難くなって建業へゆき、
「太子(孫登)が幾度も諫言を呈したが、お聴き容れあそばされなかった」
と、聞かされて、
――百官を集めて呂壱を殺し、罪を被ってでも国の患いを除こう。
と、考えた。
しかし、呂壱は病と称し、あらわれなかった。
「呂壱は心中がねじけており、法を駆使してしきりに重臣の粗探しをしております」
潘濬は、孫権に謁見するたびに呂壱の姦悪さを述べたてた。
孫権は重臣らにこぞって諫められてようやく真実を悟り、赤烏元年(二三八年)に呂壱を誅した。
これで安心したのか、潘濬は翌年にこの世を去った。

その後、孫権は老耄し、孫和を太子に立てながら孫覇を寵愛し、衰退の端緒を開いてしまった。
次期丞相と目されていた潘濬が生きていれば、どうなっていたであろうか。

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