不敗神話を重ねた名将 徐晃(三国 魏)(2) 長驅直入
魏の名将と称された徐晃の功は、司令官としてではなく、野戦の将として挙げたものであった。
現代の会社組織でいえば、経営戦略を立てるのではなく、
決定された経営戦略を現場に落とし込み、部下を指導する現場の長といったところであろう。
出世欲があったが、果たせなかったのであろうか。
あるいは、徐晃は慎重な質であったらしいので、出世に恬淡で、
おのれには野戦の将が適していると得心し、それ以上は望まなかったのかもしれない。
もしそうであるならば、徐晃は分をわきまえて、矩を踰えなかった人物であったといえよう。
中国史人物伝シリーズ
目次
漢中争奪戦
建安二十年(二一五年)、曹操の張魯征討に従軍した徐晃は、別働隊として櫝と仇夷の氐族を討伐し、
これらをみな降した。この功により、平寇将軍に遷った。
この戦いで、徐晃は張魯軍に包囲されていた将軍の張順を救い出し、
敵の三十余の屯営を攻撃し、ことごとく破った。
曹操は張魯を降し、十二月に帰途についたが、夏侯淵と徐晃らは漢中にとどまり、陽平で劉備を防いだ。
建安二十三年(二一八年)、蜀の将軍陳式らが馬鳴閣道を断つと、徐晃はこれを撃ち破った。
敵兵の多くは、山谷に身を投げて死んだ。
曹操はそれをきいて、
「この閣道は漢中の険要で、咽喉に当たる。劉備は内外を断絶して漢中を取ろうとした。
将軍は一挙にてよく賊の計をくじいた。善のうちの善である」
と、大いに喜び、徐晃に節(軍権のしるしの旗)を授けた。
翌年、曹操は親征して陽平に至り、夏に漢中から諸軍を引き揚げさせた。
荊州救援
援 軍
劉備と争っているのは、漢中だけではない。
荊州では、曹仁が関羽と戦闘を繰りひろげていた。
曹操は、曹仁の救援に于禁をさしむけた。
于禁は、曹仁がいる樊城の北数里にある偃城に陣をかまえた。
ところが、漢水が突然あふれ、于禁の陣が水没した。
関羽は于禁を捕え、偃城に屯営を置き、曹仁を樊城に攻め囲んだ。
「曹仁を援けよ」
徐晃は曹操の命を受けて荊州へゆき、宛に駐屯した。
――いまは、戦えぬ。
徐晃が率いていた兵は新たに徴集した者が多く、関羽と戦うには訓練が足りなかった。
徐晃は、樊城の西北数十里ほどにある陽陵陂でとどまり、援軍の到着を待った。
「兵馬が至れば、ともに進め」
という曹操の命とともに徐商と呂建らが援軍を率いてくると、徐晃は軍を進めた。
徐晃は偃城に到ると、塹壕をつくり、敵の背後を断つようにみせかけた。
敵はそれを真に受け、陣を焼き払って逃げた。
徐晃は偃城を抜くと、両面に陣営を連ねながら少しずつ進み、
敵の包囲陣から三丈(約七メートル)ばかりのところで止まった。
ここで、殷署や朱蓋ら十二の屯営の兵が徐晃軍に加わった。
関羽雲長
敵の屯営は、囲頭と四冢にあった。
「囲頭を攻める」
徐晃はそう吹聴しておいて、防備が手薄になった四冢をひそかに攻めた。
ところが、そこには関羽が待ち構えていた。
「関将軍――」
「おお、久しいのう」
徐晃はかねてから関羽を敬愛していたので、関羽をみつけると話しかけ、遠くから親しく語りあった。
しかし、世間話を交わすだけで、軍事には及ばなかった。
徐晃は話を終えて引きかえし、馬から下りると、
「関雲長(関羽)の首をとった者には、賞金千斤じゃ」
と、全軍に命じた。関羽が驚き怖れ、
「おい、何を申すか」
と、叫ぶと、徐晃は、
「これは、ただ国事を述べたまでのこと」
と、返した。
徐晃が攻撃をはじめると、関羽は退却した。
長驅直入
徐晃は逃げる敵軍を追撃し、かれらとともに敵の包囲陣に突入した。
そこに、樊城から曹仁が撃ってでた。
敵は内外から挟撃されて総崩れとなり、中にはみずから沔水(漢水)に身を投げて死ぬ者もいた。
こうして徐晃は関羽軍を撃退し、樊城の囲みを解いた。
「われは三十余年兵を率い、古の用兵に通じた将の話を聞き知っているが、
長駆して一気に敵の包囲陣に突入した者はいなかった。将軍の功は、孫武や司馬穰苴を踰えよう」
捷報に接し、そう激賞した曹操は、摩陂まで親征した。
徐晃が軍を整えて摩陂に還ると、曹操が七里(約三キロメートル)先まで出迎えてくれた。
――大王は、そこまでわれのことを。
徐晃は、胸をふるわせた。
その後の祝宴で、徐晃は曹操から酒を勧められ、
「樊と襄陽が全きを保ったのは、将軍の功じゃ」
と、ねぎらいのことばをかけられた。
曹操は、諸陣営を巡察した。
士卒はみな持ち場を離れて曹操たちを観ていた。
そのなかで、徐晃の軍営だけが整斉としており、将兵は陣にとどまり微動だにしなかった。
「徐将軍には、周亜夫の風があるといえよう」
曹操は、そう感嘆の声を揚げた。
魏朝の臣
建安二十五年(二二〇年)、曹操が亡くなり、曹丕が魏王になった。
このとき、右将軍・逯郷侯となった徐晃は、曹丕が皇帝になると楊侯に昇進した。
さらに、夏侯尚とともに上庸にいた劉封を討ち、これを撃破した。
黄初二年(二二一年)に、魏郡の東部を分割して陽平郡とすると、
徐晃は陽平侯に移封され、封地の鎮撫を命じられた。
黄初七年(二二六年)、徐晃は、曹丕の死に乗じて攻めてきた呉の諸葛瑾軍を襄陽で防いだ。
徐晃は二百戸を加増され、前とあわせて三千百戸となった。
このとき徐晃は、少なくとも六十歳くらいであったろう。
天下平定のため幾多の戦場をくぐり抜けてきたそのからだは、病に蝕まれていた。
徐晃は病が重くなると、季節にあわせた衣服で斂葬するよういい遺し、太和元年(二二七年)に死去した。
不敗の秘訣
徐晃は倹約に努め、つねに畏れ慎んだ。
そして、つねに嘆息していった。
「古人は明君に遭わないことを患えたが、いま幸いにも明君に遇えたからには、
常に力のかぎりを尽くして功を挙げねばならぬ。おのれの誉れなど気にしようか」
そのことば通り、かれは戦場ではいつも全力で敵に当たり、最善を尽くした。
行軍時はいつも遠くまで斥候を放ち、先に勝てなかった場合の算段をしておいてから戦った。
一方、勝ちに乗じて敗走する敵を追う際には、兵士に食事をとる暇さえ与えなかった。
このように、慎重さと大胆さをうまく使い分けることができた。
ゆえに、幾多の戦いで勝ちつづけることができたのであろう。
真の武人
徐晃は出世には恬淡で、政治に関与しようとしなかった。
そして、決してたれかと徒党を組むことをしなかった。
そのため、政敵がおらず、たれからも怨まれなかった。
乱世にあって奇特な存在といえよう。
かれが生きた時代は、天下が乱れ、敵がいた。
敵ある限り、戦いはなくならない。
戦がある限り、かれは必要とされた。
おのれの才を活かし、武人として生きたことをおもえば、分をわきまえて、矩を踰えなかったともいえようか。
真の武人とは、こういう人物をいうのであろう。
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