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中国史人物伝

裏切りは乱世のならい⁉ 反覆常なき美丈夫 孟達(三国 魏)(2)


孟達(1)はこちら>>

蜀を裏切った孟達は、魏の文帝(曹丕)に寵愛され、厚遇された。

ところが、文帝が崩じると、孟達は蜀になびき魏に叛旗を翻す。

物語『三国志』で、かれは司馬懿仲達とともに討伐にきた徐晃を射殺し、

読者に強烈な印象を与えた。

それなのに、正史『三国志』には孟達の列伝が立てられていない。

けっきょく、かれは容貌だけの男であったということなのか。

中国史人物伝シリーズ


目次

異 心

孟達はもと蜀臣ということで、群臣ら猜疑の目をむけられた。
高位にありながら孤立していたかれにとって、曹丕の恩顧だけが恃みであった。
まだ壮い曹丕の治世が長く続けば、かれの地位は安泰であったろう。
しかし、親しく接してくれていた桓階や夏侯尚が相次いで亡くなり、
黄初七年(二二六年)に曹丕が崩じると、孟達は不安になった。
かれの心中を看抜いていたかのように、その頃あたりから諸葛亮から復帰を誘う手紙が幾度となく届いた。
――孔明どのは、温かいご仁じゃ。
孟達はそう感じ、諸葛亮に返事を出した。
何度かやり取りをしているうちに、孟達は魏への叛意をほのめかすようになった。
諸葛亮からは、幾度となく決起を促された。
しかし、孟達はなかなか腰をあげられずにいた。

決 起

太和元年(二二七年)十二月、孟達は、
「申儀が、われが蜀に通じていると上表しただと――」
と、斥候から報せを受けた。
実は、諸葛亮が郭模という者を、孟達と仲が悪かった申儀のもとに偽装投降させ、
孟達の叛意を漏らしていたのである。
――もはやぐずぐずできぬ。
孟達は驚き恐れ、挙兵しようとした。
そこに、宛に駐屯する司馬懿から手紙がきた。
「将軍は昔、劉備を捨て、国家に身を託しました。国家は将軍に国境の守りを委ね、蜀への対応を任せました。
蜀人で将軍に怒りをいだかぬ者はおりません。諸葛亮は将軍を攻めたがっております。
でも攻めないのは、手段がないからです。郭模の言は、小事はありません。
諸葛亮がどうしてそんなことを軽々しく暴露しましょうや。これくらいのこと、たやすくわかりましょう」
実は、孟達は諸葛亮から、
「司馬懿の動きにお気をめされよ」
と、手紙で忠告を受けていた。
しかし、司馬懿の手紙を読んで、孟達は大喜びし、
――孔明は、心配が過ぎるんじゃないか。
と、苦笑しつつ、諸葛亮に返書をしたためた。
「宛は洛陽から八百里離れており、ここからは千二百里も離れています。
われの決起を聞き、天子に上奏してからここへやってくるのに、一か月かかります。
そのころにはすでにわれは城の守りを固めており、諸軍を整えるにも十分でしょう。
また、ここは要害ですから、司馬公自らくることはきっとないでしょう。諸将がくるなら、患いはござらぬ」
――いかな大軍でも上庸は陥ちぬ。
と、孟達は楽観していた。

神 速

ところが、八日すると、目を疑うような光景が孟達の眼下に現出した。
司馬懿の軍が、現れたのである。
――まっ、まさか。仲達は、洛陽に行ったんじゃないのか。
孟達は、あわてて諸葛亮に危急を告げた。
「われが決起してから八日しか経ってないのに、城下に兵が迫っております。
神速とは、こういうのをいうのでしょうか」
上庸城の北・東・南は、川に面している。
大軍を展開できるのは、城の西側だけであった。
そこで、孟達は城外の西側に木の柵を作り、守りを固めた。
だが、司馬懿は川を渡って城の西側へまわり、柵を破壊し、城下に到った。
太和二年(二二八年)正月、司馬懿は上庸城に総攻撃をかけた。
連日猛攻にさらされる城内で、
「耐えてくれ。もちこたえれば、蜀の援軍がかならずくる」
と、孟達は将兵を督励した。
しかし、援軍があらわれないまま、十六日が過ぎた。
城内に、司馬懿の兵の喊声が響き渡った。
孟達の甥の鄧賢や部将の李輔らが司馬懿に内応して城門を開き、兵を導きいれたのである。
「もはやこれまで――」
孟達は城外へ逃れようとしたものの、門に到らぬうちに斬殺された。
裏切りに裏切りを重ねたかれの生涯は、身内の裏切りで幕を閉じた。

徐晃射殺の真偽

物語の『三国志』では、徐晃が孟達を伐ちに上庸へゆき、孟達に射殺された話がある。
正史『三国志』では、魏の名将である徐晃は、太和元年(二二七年)に病死した。
したがって、孟達が徐晃を射殺した話は創作である。
武将は戦場で死ぬのが本望であるとはいえ、その頃に死去した名将を登場させるあたり、
絶妙な設定で心憎い演出といえよう。
徐晃は気の毒であるが……。

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