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中国史人物伝

ほんまの敵は上司? 張郃(三国 魏)(1) 曹操の名将

『三国志』で、蜀の劉備玄徳や諸葛亮孔明を恐れさせた魏の名将

張郃(あざなは儁乂) (?-231)

は、物語では武辺一辺倒の猪武者のような印象があるが、

実際は、兵略にもすぐれ、臨機応変なふるまいができたといわれる。

黄巾討伐時から戦場にいたというから、四十年以上も戦争の最前線におり、生涯現役であった。

正史をみると、街亭の戦いで馬謖軍を大破できたのは本当はかれの功績なのであるが、

物語では司馬懿(仲達)の手柄になっているなど損な役回りをさせられている感がある。

実際は、どのような人物であったろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

仕 官

張郃は冀州河間郡鄚県出身で、後漢の末期に黄巾討伐の募兵に応じて黄巾の賊と戦い、
軍の司馬となり、冀州の牧(州の長官)である韓馥に仕えた。
袁紹が韓馥から冀州を奪うと、張郃は兵を連れてその配下になった。
校尉(部隊長)になった張郃は、公孫瓚との戦いで活躍し、寧国中郎将に昇進した。

官渡の戦い

建安五年(二〇〇年)、袁紹は許都を襲うべく南征の兵を発して、曹操と官渡で対峙した。
両軍の小競り合いが続くなか、張郃は、
「公は曹公と戦ってはなりません。ひそかに軽騎兵を出して敵の背後を荒らせば、敵はおのずと敗れましょう」
と、袁紹に進言した。しかし、袁紹は聴き容れなかった。
袁紹は、淳于瓊に武器や兵糧を烏巣に運ばせ、守らせた。
曹操はそれを知ると、自ら烏巣を急襲した。
「曹公の兵は精鋭ですから、淳于瓊を撃ち破りましょう。そうなればおしまいです。急ぎ援軍を出すべきです」
張郃は袁紹にそう進言したが、
「敵の本陣を攻撃すれば、必ず引き返します。そうすれば、救援しなくても解決します」
と、郭図に反対された。張郃は、
「曹公の陣は堅固ですから、攻撃してもきっと陥とせません。
もし淳于瓊らが捕えられれば、われらもみな捕えられましょう」
と、反駁し、争論になった。
袁紹は両者の意見を容れる形で、烏巣に軽騎兵を送り、張郃には重装の兵を率いて曹操軍の本陣を攻撃させた。
――攻撃しても陥とせないと申したのに……。
張郃は曹操軍の本陣を攻めたが陥とせず、淳于瓊は曹操に敗れ、袁紹軍は崩壊した。
――張郃の申した通りになった……。
肩身の狭い思いがした郭図は、責任を逃れるべく、
「張郃はわが軍が敗れて得意になり、不遜なことを申しております」
と、袁紹の耳に吹きこんだ。
張郃は身の危険を感じ、曹操に帰順した。
「伍子胥は気づくのが遅かったために、死ぬはめになった。
微子が殷を去り、韓信が漢に帰服したようなものであろうか」
曹操はそういって喜び、張郃を幕下に迎え入れた。

名 将

偏将軍に任じられ、都亭侯に取り立てられた張郃は、曹操に従って袁紹の本拠地である鄴を攻め陥とし、
袁紹の子の袁譚を攻めた。
建安十一年(二〇六年)、曹操に従って東莱郡に遠征し、海賊の管承を討伐した。
翌年、張遼とともに先鋒となって柳城で烏桓と戦い、平狄将軍に昇進した。
さらに、張遼とともに陳蘭と梅成を討伐した。
この頃、張郃は張遼・楽進・于禁・徐晃とともに名将と称され、曹操が征伐にむかうごとに交替で起用され、進撃すれば先鋒を、帰還時には殿軍を務めた。
建安十六年(二一一年)、曹操の西征に従って渭南で馬超と韓遂を撃ち破り、
安定を包囲し、楊秋を降伏させた。
翌年、夏侯淵とともに馬超の残党である鄜の梁興と武都の氐族を討伐した。
さらに、ふたたび関中を狙って動きだした馬超を破り、隴西の宋建を討伐した。

漢中争奪戦

建安二十年(二一五年)、曹操が漢中の張魯を征伐すべく陳倉に到着し、武都から氐へと入ろうとしたところ、氐人が道を塞いだ。
張郃は曹操の命を受け、諸軍を指揮して興和の氐族の王である竇茂を討伐した。
曹操が陳倉を発ち、散関から漢中へ進軍する際に、張郃は歩兵五千を率いて露払いした。
張魯が降伏すると、張魯に従っていた板循蛮の朴胡・杜濩らも曹操に降り、巴東・巴西の郡太守に任じられた。
曹操は帰還に際し、夏侯淵と張郃に漢中を守らせ、蜀を得た劉備に対応させた。
張郃は巴東・巴西の二郡を降し、宕渠まで進軍し、住民を漢中へ移そうとした。
そこで蜀の巴西太守である張飛と遭遇し、対峙した。
睨み合いが五十日あまり続いた後、張飛が別の道を通って挟撃してきた。
張郃は、馬を乗り捨てて配下十数人とともに間道をぬって退却し、南鄭に戻った。
張郃は敗れはしたものの、張飛軍の攻撃から巴東・巴西の民を守り抜いた。
この功により、かれは湯盪将軍に任じられた。
朴胡・杜濩らは、住民を引き連れて略陽へ移住した。
こうして、略陽付近に居住した板循蛮は、巴氐と呼ばれた。

定軍山の戦い

建安二十四年(二一九年)、劉備の軍と陽平関で対峙し、夜襲をかけられたが、防ぎ切った。
劉備が走馬谷を焼き払い、張郃を攻めた。
夏侯淵は張郃の救援に向かう途中で劉備の軍に遭遇し、戦死した。
劉備は夏侯淵を討ち取っても喜ぶどころか、
「一番の大物を手にいれておらぬ」
と、吐き捨てただけであった。それほど張郃を恐れていたのである。
張郃は陽平関に引き返し、立て直しを図った。
魏軍は総大将を喪い、意気消沈してしまった。夏侯淵の司馬であった郭淮は、
「張将軍は国家の名将であり、劉備に恐れられている。
いま、事態は急迫している。張将軍でなければ鎮静させられない」
と、いい、張郃を総大将として蜀軍に対抗しようとした。
張郃は陣中を巡回し、全軍を落ち着かせた。
長安まで出てきていた曹操は、夏侯淵の戦死を知ると漢中に出征した。
曹操が漢中に到ると、劉備は高い山に立てこもり戦おうとしなかった。
そこで曹操は漢中の支配をあきらめて引き揚げ、張郃は途中の陳倉に駐屯した。

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