Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//長驅直入 不敗神話を重ねた名将 徐晃(三国 魏)(1) 天子の忠臣

中国史人物伝

長驅直入 不敗神話を重ねた名将 徐晃(三国 魏)(1) 天子の忠臣

『三国志』に依拠した成語は、数多い。

「長驅直入」(または「長駆」)

も、そのひとつである。

遠方から一気に突入することを意味するこの語は、

219年の樊城の戦いで、徐晃が遠方から一気に関羽の包囲陣に突入し、

撃ち破った戦功への曹操の讃辞(『労徐晃令』)に由来する。

徐晃(あざなは公明)(?-227)

は、張遼や張郃らとともに名将と称され、

曹操が征伐にむかうたびに起用され、

進撃すれば先鋒を、撤退時には後拒をつとめるほど信頼された。

物語では大斧使いとして活躍するが、史書には軍装について言及されていない。

戦場での勇猛さが際立つ徐晃が、武功を重ね、

幾多の戦場をくぐり抜けながら負けなかったのは、決して僥倖ではなかった。

中国史人物伝シリーズ

目次

楊奉の部将

徐晃は河東郡楊県の出身で、河東郡の役人となり、
李傕の部将であった楊奉に従って賊を討伐し、功を挙げ、騎都尉(騎兵隊長)を拝命した。
李傕と郭汜が反目しあい、長安が戦乱の巷と化すと、楊奉は李傕に反旗を翻した。
「天子を奉じて洛陽へ還りましょう」
徐晃がそう進言すると、楊奉はそれに従い、韓暹とともに献帝を護衛して東へ移動した。
興平二年(一九五年)のことである。
献帝が黄河を渡って安邑に至ると、徐晃は都亭侯に封じられた。
建安元年(一九六年)七月、楊奉と韓暹は、献帝を擁して洛陽へ還った。
洛陽へ到ると、楊奉は韓暹や董承らと激しく反目しあうようになった。
「曹公をお招きなされませ」
徐晃がそう進言すると、楊奉は兗州から曹操を招いた。
その後、楊奉は、洛陽を離れ、梁に駐屯した。
しかし、九月に曹操が献帝を許に移そうとすると、楊奉は、
――あんなやつ、呼ぶんじゃなかった。
と、後悔し、献帝を取りもどそうとしたが、間にあわなかった。
翌月、楊奉は梁で曹操に攻められ、袁術のもとへ奔ったが、徐晃は曹操に帰服した。

曹操の部将

徐晃は、曹操から兵を授けられ、
「巻と原武の賊を撃て」
と、命じられた。
徐晃は賊を撃破し、裨将軍を拝命した。
建安三年(一九八年)、徐晃は曹操の呂布征討に従軍し、別働隊として呂布の将である趙庶や李鄒らを降した。
建安四年(一九九年)、徐晃は史渙らとともに河内で眭固を斬った。
翌年、徐晃は曹操に従って徐州に侵攻し、劉備を撃ち破った。

河北平定

建安五年(二〇〇年)、徐晃は曹操に従って白馬へゆき、袁紹の将軍顔良を破り、
さらに西に進んで延津に至り、袁紹の将軍文醜を破り、偏将軍を拝命した。
このころ、汝南郡の黄巾賊が曹操にそむいて袁紹に呼応し、許の近郊を荒らした。
徐晃は、曹洪とともに曹操の命を受けて汝南へゆき、㶏彊の賊祝臂を攻め破った。
また、史渙とともに袁紹の輜重車数千乗を故市で撃破してすべて焼き払い、
「第一の功じゃ」
と、曹操から激賞された。
建安九年(二〇四年)四月、曹操は袁氏の本拠地である鄴を攻め囲み、邯鄲を破った。
易陽の令韓範は開城して降ると偽り、城を守り拒んだ。
「韓範を伐て」
曹操からそう命じられた徐晃は、易陽に至ると、城中に矢を放ち、状況を説明した。
すると、韓範が降伏を申しいれてきた。
「二袁(袁譚・袁尚)はまだ破られておらず、諸城は必死に情報を集めております。
今日易陽を滅ぼせば、明日はどこも死守しましょう。
そうなれば、おそらく河北はひとときも安定しなくなりましょう。
公は易陽を降し、諸城にお示しあそばされませ。
さすれば、それをきいてなびかないものはございますまい」
徐晃がそう進言すると、曹操はこれを容れ、韓範を関内侯に封じた。
さらに、徐晃は別働隊として毛城を攻め、伏兵を設けて急襲して三つの屯営を撃破し、
鄴に通じる糧道を遮断した。
そのため、鄴は八月に陥落した。
翌年正月、徐晃は曹操に従って南皮で袁譚を攻め破り、平原の賊を討伐した。
建安十二年(二〇七年)、徐晃は曹操の蹋頓(烏桓の族長)征討に従軍し、横野将軍を拝命した。

南へ北へ

建安十三年(二〇八年)、曹操の荊州征討に従軍した徐晃は、別働隊として樊に駐屯し、
中廬、臨沮、宜城の賊を討伐した。
さらに、満寵とともに漢津で関羽を攻撃し、曹仁とともに江陵で周瑜を攻撃した。
建安十六年(二一一年)正月、太原の商曜が大陵で反乱を起こした。
徐晃は曹操の命で夏侯淵とともに大陵を攻め囲んでこれを抜き、商曜を斬った。

関中平定

建安十六年(二一一年)夏に韓遂と馬超らが叛乱を起こした。
徐晃は、曹操の命で汾陰に駐屯して河東を鎮撫した。
さらに、曹操の計らいで牛と酒を賜り、祖先の墓を祀った。
徐晃は、八月に曹操と潼関で合流した。
「河を渡れるであろうか」
曹操からそう諮われたので、徐晃は、
「公がここで武威を示しておられるのに、賊は別の軍を出して蒲阪を守っております。
それゆえ、賊に謀計がないことがわかります。臣に精兵をお貸しください。
蒲阪津を渡って、先に陣をつくり、賊の背後を絶てば、賊を擒にできましょう」
と、進言した。それをきいて曹操は、
「よいかな」
と、応じた。
徐晃は四千の兵を授けられ、夜半に蒲阪津を渡り、黄河の西岸に塹壕と柵をつくった。
だが、まだ完成しないうちに、敵将梁興率いる五千余の兵に夜襲をかけられた。
徐晃は敵軍を撃退し、その背後に陣を布いた。そのため、曹操は渡河することができた。
曹操はさらに軍を進め、九月に馬超らを撃破した。
冬に徐晃は曹操の命で夏侯淵とともに隃麋と汧の氐族を平定し、曹操と安定で合流した。
翌年、徐晃は曹操の命で夏侯淵とともに鄜と夏陽にいる馬超らの残党を討伐し、梁興を斬り、
三千余家を降した。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧