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中国史人物伝

餓死した宰相 周亜夫(前漢)

家柄がよくて才能があれば、富貴を得やすい。

栄達し、地位や名声を得れば、人は幸せになれるのであろうか。

位人臣を極めても、終わりが良くない者もいる。

――良心に従い、信念や主張を全くぶれずに仕事をしたのに、評価が以前と違っていた。

なんて経験をした人は少なくないのではなかろうか。

組織において、下される評価は、上司の器量に依存せざるを得ない。

煩悶するのは、上司が無能な場合ばかりでない。

部下が庸劣な場合も、扱いに苦慮することになろう。

上司に媚びるか、それとも、部下に媚びるべきなのか。

それは、時や内外の環境によって違うかもしれない。

組織内で大過なく全うする――

一見簡単そうでありながら、実は、なかなか骨の折れる所業なのではなかろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

人 相

周亜夫は、漢の建国の功臣である周勃の子で、父の死後、河内太守に任じられた。
当時、人相見が流行っていた。
周亜夫も、許負という人相見の女性に人相を観てもらった。
「あなたは、三年後に列侯になります。それから八年で将軍、宰相になり、国権を握り、高貴な身分となって重んじられ、人臣で並ぶ者がいなくなりましょう。そして、九年後には餓死するでしょう」
――侯になり、宰相になって、餓死するだと。
あまりに突飛な見立てに、周亜夫は笑いながら言った。
「兄がすでに父を継いで侯になっている。兄が死んだらその子が継ぐんじゃ。どうしてわれが侯になれよう。
なれたとしても、あなたが申すように高貴になるのなら、どうして餓死するんじゃ。わけを申してみよ」
許負は、周亜夫の口もとを指さしながら、
「鼻の両端から出た縦の線が、口の中に入っております。これが餓死する人相です」
と、真顔でいった。
その後、兄の周勝之は殺人罪に連座し、国を断絶された。
――建国の功臣の胄を絶やしてはならぬ。
文帝はそうおもい、周勃の子の中で賢明な者を重臣にたずねたところ、みなが周亜夫を推挙した。
そこで、文帝は周亜夫を条侯(條侯)に封じた。
許負に人相を観てもらってから三年が経っていた。

柳 営

紀元前一五八年、匈奴が漢の領内深くまで侵攻した。
それに備えるべく、文帝は周亜夫を守将に任じた。
文帝が慰労のため周亜夫の陣を訪ねたが、周亜夫は中に入れなかった。
文帝の詔を受け、周亜夫はようやく陣門を開け、文帝を中に入れた。
周亜夫は陣中で文帝を特別扱いせず、終始軍礼に従って応対し、
――あれが真の将軍というものだ。
と、文帝を感嘆させた。
(このとき、周亜夫が陣営を細柳に設けたことから、将軍の軍営、ひいては幕府のことを柳営という。)
匈奴が去ると、周亜夫は中尉に任じられた。
「もし国に大事が起きたなら、周亜夫を将軍にして任せるとよい」
文帝は、亡くなる前、皇太子(景帝)にそう遺命した。
景帝は即位すると、周亜夫を車騎将軍に任じた。

救国の名将

漢は、一族や功臣を諸侯王に封じ、秦が採った郡県制と併用した。これを、郡国制という。
諸侯王には広大な領地と国内の統治権が与えられ、次第に強大化し、独立国の様相を呈していた。
景帝は皇帝の権力強化を図り、各国の領土を削り始めた。
呉王の劉濞はこれに反発し、紀元前一五四年に兵を挙げた。
叛乱は呉だけにとどまらず、楚など六王国がこれに加担した。呉楚七国の乱である。
景帝は文帝の遺命に従い、周亜夫を太尉に任じ、呉と楚を攻撃するよう命じた。
「楚の兵は剽悍敏捷で、鋒を交えるのは困難です。かれらと戦うのは梁に任せ、わが軍は楚軍の糧道を絶ちたいと存じます」
出立にあたり、周亜夫は景帝にそう願い出て、聴許された。
周亜夫は洛陽へ行って武器庫を確保し、滎陽で兵を集めた。
このとき、反乱軍の主力である呉軍は、梁を攻めていた。
危急に瀕した梁は、周亜夫に救援を要請した。
ところが、周亜夫は途中の昌邑まで移動すると、城壁を深くして守った。
梁は毎日のように救援を要請した。が、周亜夫は兵略を守り、援軍を出さなかった。
梁王の劉武は、景帝の同母弟であった。
梁は景帝に働きかけ、周亜夫に梁を援けるよう詔を出してもらったが、周亜夫はこれも無視し、城壁を堅固にして出撃しなかった。
一方で、周亜夫は軽騎兵を出して呉・楚軍の糧道を絶たせた。
その結果、呉・楚軍は飢えはじめ、攻撃対象を梁から昌邑へ変えたが、周亜夫は守りを固め、出撃しなかった。それに対し、呉王は昌邑城の東南を牽制しておいてから西北を攻めたが、周亜夫に戦略を読まれてしまい、城内に攻め入ることができなかった。
飢えに苦しむ呉・楚軍は、戦意を喪失し、退却した。
周亜夫は精兵を出して追撃し、呉軍を大いに撃ち破った。
呉王は軍を棄てて逃走し、江南の丹徒に立て籠ったが、一か月ほど後に殺害された。
結局、内乱は勃発から三か月で平定された。
国の危機を救い、周亜夫は景帝に尊重されるようになったが、その弟である梁王からは怨まれてしまった。

感情の行き違い

紀元前一五〇年、周亜夫は丞相(首相)となり、位人臣を極めた。
この頃、景帝は皇太子を廃しようと思っていた。
周亜夫はこれを強く諫めたが、思い止まらせることができなかった。
以後、周亜夫は景帝に疎まれた。
さらに、母の竇太后と弟の梁王劉武が景帝の耳に周亜夫の悪口を吹き込んだ。
その後も、周亜夫は景帝と意見が対立することが度重なった。
周亜夫は剛直で、決して景帝に迎合しなかった。そのため、景帝の機嫌を損ねていった。
「皇后の兄である王信を侯になさるように」
竇太后からそう迫られた景帝が、周亜夫にこの件を相談したところ、
「高帝(劉邦)は、功績のある者でなければ侯になれない、と仰せになられました。
王信は皇后の兄とは申せ、何の功もございません」
と、言上したため、沙汰やみとなった。
その後、匈奴の王たちが漢に降服してきた。
――かれらを侯にして、今後投降者が続くよう勧めたい。
景帝はそう思ったが、周亜夫は、
「かれらはおのれの主君に背いて陛下に降った者です。陛下がこれを侯にされるなら、人臣としての節義を守らない者をどうして責めることができましょうか」
と、反対した。
景帝は周亜夫の意見を聴き容れず、匈奴の王たちを列侯にした。
周亜夫は、病と称して出仕しなくなり、紀元前一四七年、丞相を罷免された。

景帝の底意地

景帝が宮中に周亜夫を呼び、ごちそうを賜った。
そこには大切りの肉だけが置かれてあり、小切りの肉も箸もなかった。
周亜夫は心中穏やかでなくなり、世話係の役人に箸を持ってくるよう申しつけた。それをみて、景帝は、
「君のところには何か足らんものがあるんじゃないか」
と、笑いながらいった。
周亜夫が冠を脱いで謝ると、景帝は、
「立て」
と、いった。
周亜夫は、趨走して退出した。景帝は、それを目送しながら、
「あの不満そうな顔をしている者は、わしの臣ではない」
と、いった。

黄泉での謀叛

周亜夫の子が、父の葬儀に使うために武器を購入した。
これが皇帝専用の禁器物の盗買であった。
事が露見し、その子は罪に問われ、周亜夫も連座させられた。
役人が捕まえに来たとき、周亜夫は自殺しようとしたが、夫人に止められた。
周亜夫は捕えられ、廷尉(司法長官)のもとに引き出された。
「われが買ったのは、葬儀用の祭器じゃ。なにゆえ謀反と申すのか」
そう弁明した周亜夫に、廷尉は、
「あなたは、たとえ地上で叛かないにしても、地下で叛こうと思っているのです」
と、決めつけ、厳しく問責した。
食事も摂れぬほど急な訊問が五日続いた挙句、周亜夫はついに血を吐き、事切れた。
紀元前一四三年のことである。

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