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中国史人物伝

子産を達した大宰相 真の賢人 子皮(罕虎)(春秋 鄭)(1) 宰相の座

春秋時代の鄭国の名宰相といえば、子産が挙げられよう。

子産は該博の賢人であるが、孔子にいわせると、賢人ではないらしい。

「いまの人臣で、たれが賢といえましょうか」

孔子は、弟子の子貢からそうたずねられ、

「賢人などおらぬ。かつては斉の鮑叔、鄭の子皮がいた。ああいうのが賢といえよう」

と、返した。

「斉の管仲、鄭の子産じゃないのですか」

子貢がそう訊き直すと、孔子は、

「賜(子貢の諱)よ、なんじはその一を知ってその二を知らん」

と、呆れ、

「では、聞こう。能力を発揮した者が賢なのか、それとも賢人を薦めた者が賢なのか」

と、訊き返した。

「やはり、賢人を薦める者が賢でしょう」

「さよう。われは、鮑叔が管仲を栄達させ、子皮が子産を栄達させた、と聞いておるが、

管仲や子産がおのれに賢る者を薦めたとは聞いてはおらぬぞ」

――子皮は、子産を達せり(『孔子家語』賢君)。

子皮は鄭の宰相で、子産を引きたてて才能を発揮させた。

子皮がいなければ、子産がいくら賢くても手腕を振るえなかったであろう。

そう考えれば、子産の才能を見抜き、適所につけた子皮こそ、真の賢人といえよう。

中国史人物伝シリーズ

鄭の七穆

目次

遺 命

子皮は鄭の穆公の曽孫で、名を罕虎という(子皮は、あざな)。
かれがはじめて史書に登場するのは、簡公二十二年(紀元前五四四年)、
鄭の宰相であった父の子展の死によってである。
「国人に、粟を戸ごとに一鍾(約五十一・二リットル)ずつ与えよ」
これが、子展の遺命であった。
前年の不作の影響により、鄭は飢饉となった。
麦の収穫までまだ間があり、人民は飢えに苦しんでいた。
子展は死の間際まで、人民の困苦を案じていたのである。
「父上の遺命である」
子皮は、そう称して国人に粟を戸ごとに一鍾ずつ与えた。
何かを与えれば、得るものがあるらしい。
子皮は、人民の声望を得た。
なんと、かれへの評判が鄭の廟堂を動かしたのである。
「虎(子皮の名)を、正卿(宰相)に任じる」
服喪中に君命を受けた子皮は、喪を払い、朝服に着替えて簡公に謁見した。

内 乱

子展が亡くなったとき、鄭の卿(大臣)は、
伯有 (良氏の当主)
子西 (駟氏の当主)
子産 (国氏の当主)
子大叔(游氏の当主)
二人の子石
の六人であった。
卿ですらなかった子皮が、ひと跨ぎに六人を飛び越えて宰相になったのは、大胆な人事といえよう。
罕氏は子罕、子展と二代続けて宰相を輩出した家柄であるから、子皮が宰相になってもおかしくない。
そんな子皮でも廟堂の首座に座ったことを素直に喜べないのが、鄭の政情である。
最大の難点は、伯有が次席にいることである。
良氏は、罕氏よりも家格が高い。しかも、
「伯有は、侈って剛愎」
と、子産が評したように、伯有は尊大で輯睦を欠いていた。
――これで、われが宰相じゃ。
子展の死後、伯有はそうおもい込んでいたはずである。
ふつうであれば、そうなろう。
しかし、そうならなかった。
――われを妨げたのは、子西であろう。
伯有は宰相になれなかった腹いせを、子西の弟である子晳にぶつけた。すなわち、
「楚へ使いせよ」
と、子晳に命じたのである。
このとき、鄭は晋の盟下にいた。
敵国である楚へゆけば、どのような目に遭わされるかわからない。
子晳が拒否すると、伯有は無理やりゆかせようとした。
簡公二十三年(紀元前五四三年)七月、怒った子晳は、伯有邸を襲撃した。
備えをまったくしていなかった伯有は、いのちからがら脱出し、許へ亡命した。

死者への礼

伯有が去った後、鄭の大夫が集まり、今後について議論した。
その席で、子皮は、
「仲虺(湯王の重臣)の書(『書経』仲虺之誥)に、乱れた国は討ち取り、亡びる国は侮り攻める、とある。
亡びる者を押し倒し、存続できる者を堅固にするのが、国にとって利益になることだ」
と、子晳を支持した。
子皮は罕氏の当主という立場から、仲のよい駟氏(子晳の家)の肩を持ったのであろう。
子皮の懸念は、内乱に背をむけ、沈黙をつづける子産の動向である。
子産は礼を知り、それを体現できる賢俊である。
――子産が政を執れば、鄭は平穏になろう。
子皮は、卿になるまえからそうおもっていた。
そのおもいは、かれが子産より上位になっても変わらなかった。
なにしろ、子産には国人の誉望がある。
そんな子産を敵に回す愚を、子皮は犯したくない。
翌日、子産は戦死した伯有の家臣の亡骸を斂めて殯葬すると、国外へ去った。
――まずい。
子皮が子産を連れ戻そうとして腰を浮かすと、
「あの人は、われらに従いません。なにゆえ引き止めるのですか」
と、諸大夫が諌めてきた。
「あの人は、死者に礼を示した。生きている者に対しては、なおさらであろう」
子皮はそういってみずから子産を追いかけ、追いつくと、
「なにとぞ戻っていただきたい」
と、子産に訴えた。
子産は子皮の説得に応じて、鄭都に引き返した。

伯有の死

――子皮の手勢が、攻撃に加わらなかった。
伯有は、そう聞かされて、
「子皮は、われに味方してくれたんじゃ」
と、喜び、亡命先の許を発ち、ひそかに鄭都に入り、旧北門を攻めたが、返り討ちに遭い、戦死した。
子産は伯有の屍体に服を着せ、股に枕させて哭泣し、遺体を納棺し、葬った。
「伐つべし――」
駟氏は、いきり立った。それをきいて、子皮が、
「礼は、国の基幹である。礼をわきまえた者を殺すなんて、これ以上の禍はない」
と、怒声を放ち、駟氏を伐とうとしたため、駟氏は子産への攻撃をおもいとどまった。

不毛の会

国内の動揺を鎮めなければならない子皮のもとへ、晋から会同への招集通知がきた。
「ゆかねばなるまい」
国を空けるのは心配であるが、会同に参加しなければ、諸侯の軍に攻められてしまう。
国政を預かる宰相として、それだけは避けねばならない。
簡公二十三年(紀元前五四三年)十月、衛の澶淵に、晋の趙武をはじめ十三か国の大臣が集まった。
五月に大火災に遭った宋に見舞い品を贈るのがこの会同の目的であったが、
会同を終えても宋に何も贈らなかった。
――不毛じゃ。
子皮は、愚痴をこぼす暇もないくらい帰路を急いだ。
その胸裡には、重大な決意を秘めていた。

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