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中国史人物伝

魯の三桓 鄭の七穆(春秋時代)

中国史の通史を読んでいると、春秋時代の項に

 ”魯の三桓”

 ”鄭の七穆”

の系図が掲載されていることが多い。

晋や楚のような大国ならともかく、

魯や鄭のような中小国の人物をこんなに覚える必要があるのか?

そもそも、これらの系図は何を意図して載せられているのか?

中国史人物伝シリーズ

宋の載氏・桓氏

楚の若敖氏・蔿氏

目次

下剋上の象徴

周が洛陽へ東遷した紀元前七七〇年にはじまる春秋時代(東周時代)は、周王の権威が堕ち、
国君へ移った国家の主権が、大夫(上級貴族)へとさらに下降していく”下剋上”の時代でもある。
紀元前八世紀から七世紀にかけて、各国では公子や公孫ら公族が国君を輔佐して政権を担う公族政治が行われて
いたが、春秋五覇の時代が終わると、中原諸国では特定の有力世族が国君の権力を凌駕して実権を握った。
特にそれが顕著であったのが、魯や鄭であった。
おそらく魯や鄭の世族が系図にまとめやすかっただけで、系図を憶える必要はないであろう。

魯の三桓

魯は周公旦の末裔の国であり、家格は高かったものの大国ではなかったため、
春秋時代にはいると、隣国の斉との関係に苦慮しただけでなく、
晋・楚二大国の動向にも配慮する必要があった。
そのせいか、礼にうるさいとされる魯でも、中原諸国と同様、
有力世族が君主から政治の実権を奪い、国政に混乱をきたすことになった。

魯の御三家

三桓(氏)は、魯の公族である
孟孫氏(仲孫氏)(公子慶父の子孫)
叔孫氏     (公子牙の子孫)
季孫氏     (公子友の子孫)
の三家の総称である。
いわば、魯の「御三家」といえよう。
紀元前八世紀末に魯の君主であった桓公の子である公子慶父(共仲)、公子牙(叔牙)、公子友(季友)
を祖とする三家の権勢は、三公子の長幼順(仲叔季)とは異なり、季孫氏が最も尊貴とされた。
これは、季友が僖公を擁立したことによる(季友が荘公の同母弟であるからとする文献もある)。
紀元前八世紀から七世紀にかけて、魯では公族(公子・公孫ら)が国君を輔佐して政権を担っていたが、
紀元前七世紀後半に君主となった文公を、
季孫行父(季友の孫)
叔孫得臣(叔牙の孫)
公孫敖 (慶父の子)
が重臣として輔け、三桓氏の基礎が固まった。
特に、季孫行父(季文子)は、宣公・成公・襄公の三代にわたり司徒(宰相)を務めた名臣である。
紀元前六世紀にはいると、三桓氏が政治の中心となり、
季孫氏が司徒、叔孫氏が司馬、孟孫氏が司空を世襲した。
紀元前六世紀半ばには、三桓氏の権勢が君主を凌駕し、
――三桓勝り、魯は小侯のごとく、三桓の家よりも卑し(『史記』魯周公世家)。
という状況になり、紀元前六世紀末になると、三桓の中でも季孫氏が権力を独占するようになった。
紀元前五五一年に生まれた孔子がこの国情を憂え、周初への復古を理想として崩れかけた身分制秩序を
再編しようとしたものの、果たせなかった。
三桓氏が政権を担うようになってから、魯は晋との同盟関係を強めており、
この外交政策が三桓氏の権力を堅固にしたともいえよう。

重要人物

季孫行父(季文子)
叔孫豹(叔孫穆子)
孟孫氏の重要人物を挙げていないが、南宮敬淑(仲孫閲)が孔子に師事したことは指摘しておく。

鄭の七穆

鄭は周を庇護するような版図を有し、まさに中華の中心に位置した。
それゆえに北方の大国である晋や南方の大国である楚にかわるがわる攻め込まれ、
紀元前六世紀に名宰相の子産(公孫僑)があらわれるまで不安定な国情にあった。

夏姫の親族?

紀元前七世紀後半に鄭の君主となった穆公は、晋の文公(重耳)の後援を受けて君主になった。
かれの在位年数は二十二年と決して長くはないが、子福者で、男子だけでも十人以上儲けた。
(最も有名なのは”絶世の美女”夏姫であるが、かの女が穆公の女なのか疑義がある)
穆公の子孫は穆氏と総称され、紀元前六世紀以降、鄭の実権を握るようになった。そのうち、
子良(良氏)
子罕(罕氏)
子駟(駟氏)
子游(游氏)
子国(国氏)
子豊(豊氏)
子印(印氏)
からはじまる七家が有力で、七穆と総称される。
穆氏で最初に宰相になったのは、兄の襄公を擁立した子良(公子去疾)である。
その後、子罕(公子喜)、次いで子駟(公子騑)が宰相になった。
七穆の位序もこの順であり、良氏が最も尊貴とされ、罕氏、駟氏がそれに続いた。
また、子罕と子駟、それに子豊(公子平)は同母兄弟であったため、三家は仲がよかった。

重要人物

何といっても、名宰相として有名な子産(子国の子)の名が挙げられよう。
七穆はすぐれた人物が多く、
子産に政治を任せた子皮(罕虎)
子産の後継を務めた子大叔(游吉)
も非凡な人物であった。
鄭が大国であれば、かれらももう少し人口に膾炙したかもしれない。

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