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中国史人物伝

子産を達した大宰相 真の賢人 子皮(罕虎)(春秋 鄭)(2) 子産の改革

子皮(1)はこちら>>

尊大で、決して他者と収睦しなかった伯有が、この世から消えた。

廟堂の首座にいる子皮は、

――これで忌憚なく権力をふるえる。

とばかりに専横をはじめるような大臣ではない。

子皮は、鄭国を治める難しさを悉知していた。

多難な政局にある鄭をまとめ、晋楚二大国に侮られないようにする。

廟堂にこの難題を解決することができる逸材がいることを、子皮は知っている。

――子産に鄭を治めてもらいたい。

そう望む子皮は、大胆な行動に出ようとしていた。

中国史人物伝シリーズ

目次

政権委譲

簡公二十三年(紀元前五四三年)、子皮は澶淵で行われた諸侯会同を終えて都に戻ると、
子産を訪れ、
「政務をおまかせしたい」
と、申し出た。
「それはなりませぬ」
子産は辞退し、
「国が小さい上に大国に逼られ、公族が大きくて君の寵臣が多いので、とても治めることなどできません」
と、鄭国を治めることの難しさを述べた。
国氏(子産の家)には、勢族を抑えて国政を担えるほどの力はない。
子産の発言は、当然であろう。しかし、
――子産に政治を任せたい。
という意望は、胸裡で長く温めてきただけに子皮は引きさがるつもりはない。
「われが群臣を帥いてあなたのご命令を聴くならば、たれがあなたを犯すでしょうか。
あなたが善政を布けば、国が小さいとは申せなくなりましょう。
小さくてもうまく大国に仕えることができれば、国内は治まります」
国を想う子皮の必死の説得に、子産もついに折れ、政治を行うことになった。

子産の改革

子産は執政の席につき、改革に着手した。
当初、子産の改革に対する人民の評判は悪かった。
――子産の政治は、きっとうまくいく。
そう信じる子皮は、子産の政治に容喙せず、なりゆきをみまもった。
そのようななか、子張が兵を集めて子産を攻めようとした。
子産は応戦せず、鄭を出て、晋へ亡命しようとした。
それをきいて、子皮は、
「子張め、何を考えておるんじゃ――」
と、怒り、子産を追いかけて追いつくと、
「子張はわれが何とかいたすゆえ、お戻りいただきたい」
と、引き止めると、子張を攻めて放逐したうえで、子産を執政の席に戻し、
「不都合があれば、われにご相談いただきたい」
と、いい、政事をつづけさせた。
――子産の理解者でありたい。
そう望む子皮は、再発を防止すべく、廟堂の首座にあって国人に睨みをきかせた。
改革の結果がどうなろうと、子皮は子産と心中するつもりであった。

愛情と地位

子皮は、尹何という家臣を愛し、
――采邑を治めさせてみたい。
と、おもい、子産にその可否をたずねた。
「まだ若いので、わかりかねます」
「実直な男じゃ。われはかれを愛している。邑へ往かせて政治を学ばせれば、より政治を知るであろう」
「それならいけません。人が人を愛するのは、その人に利をもたらすためです。
いま、あなたは政治を使って人を愛している。
これは、まだ刀を使ったことのない人に斬り割かさせているようなものです。
それでは愛する人を傷つけるだけです。たれがあなたに愛されたいと望みましょうか。
あなたは鄭国の棟です。棟が折れれば榱が崩れます。そうなればわれは押し潰されてしまいます。
どうしてことばを惜しみましょうや。
あなたが美しい錦を持っておられたら、人に裁縫を学ばせたりなどしないでしょう。
大邑を治める長官は、邑民の身を庇うべきものです。
これを美しい錦にたとえれば、なんとたくさんありましょうか。
われは、学んでから政治を行う、というのは聞いたことがありますが、
政治を行いながら政治を学ぶ、というのは聞いたことがありません。
もしそれを実行なされれば、必ず損害を被りましょう。
それはたとえば狩りのようなもので、射や御を習えば禽獣を獲ることができましょう。
もしまだ一度も車に乗って射や御をしたことがなければ、失敗したり転覆したりして
押し潰されてしまうことを懼れてしまい、禽獣を獲ることなど考えるゆとりなどありましょうや」
子産の忠告を聞いて、子皮は感嘆し、
「なるほど。われは愚かであった。
君子は遠くて大きなものを知るように務め、小人は小さくて近いものを知るように務める、と聞く。
われは小人じゃ。
身につけた衣服は知っており慎重に扱うが、邑の長官が邑民の身を庇うことについては、
遠ざけてなおざりにしておった。あなたにいわれなければ、わからなんだ。
あなたは鄭国を治めなさい。われはわが家を治め、それで庇われればよい、とまえに申したが、
思慮が足りないことを、いまになってようやく知り申した。
これからはわが家のこともあなたのご意見をうかがってからおこなうことにしよう」
と、いい、頭をさげた。子産は首をゆるやかに振り、
「人の心が同じでないのは、顔が同じでないのと同じです。
どうしてあなたの顔をわれと同じにしようなどとおもいましょうや。
ただ危ういとおもったことをお話し申しあげたまでです」
と、いった。
――忠言である。
子皮は実直な子産に政治を委ね、その後ろ盾となりつづけた。

民の主

簡公二十九年(紀元前五三七年)、子皮が斉の卿である子尾の女を娶ることになり、斉を訪れた。
この頃、子産の政治が順調に進んでおり、徐々に成果が現れはじめていた。
滞在中、子皮を足しげく訪れてきた貴人がいた。
晏嬰である。
「なにゆえそんなに繁く会いにゆかれるのか」
陳無宇からそう訊かれた晏嬰は、
「うまく善人を用いることができる民の主だからです」
と、応えた。
ものの本質を知っていなければできない発言であろう。
かれが斉の名宰相として管仲とならび称されるのもうなずけよう。

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