剛直ゆえに次の丞相で終わった高節の儒者 蕭望之(前漢)(4) 甘露
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蕭望之は神爵3年(紀元前59年)に御史大夫(副首相)になり、
宰相の座が手に届くところまできた。
五鳳3年(紀元前55年)、老齢であった丞相(首相)の丙吉の病が重くなった。
そのころに奉った上書が丞相を軽んじたものとされ、蕭望之は太子太傅に左遷された。
数か月後、丙吉が亡くなり、蕭望之の後任として御史大夫になっていた黄覇が丞相に昇った。
それでも、蕭望之が次期宰相の有力候補のひとりであったことには変わりがない。
かれにとって幸いなことに、
宣帝と違って、太子奭(のちの元帝)は幼くして儒学を愛好していた。
蕭望之は、『論語』や『礼』の「喪服」を太子奭に教授した。
太子奭は、名儒である蕭望之を尊重し、信頼した。
中国史人物伝シリーズ
漢中興の功臣 丙吉
目次
単于の席次
甘露三年(紀元前五一年)正月、匈奴の呼韓邪単于が漢に来朝した。
漢の朝廷では単于の席次が議論され、丞相の黄覇と御史大夫の于定国は、
「単于を諸侯王の下にすべきであります」
と、主張した。
これに対し、蕭望之は、つぎのような異見を述べた。
「単于を不臣の礼で待遇し、席次は諸侯王の上とするのがよろしいと存じます。
外夷が稽首して藩臣と称しても、中国は謙譲して臣としないこと、
これが羈縻(つなぎとめること)の誼であり、謙の徳が亨ることの福であります。
もし匈奴の後嗣が鳥のように逃げ、鼠のように隠れ、参朝しなかったとしても、叛臣とはいたしません。
漢の信と謙譲が蛮貉(北方の夷)でもおこなわれ、福祚(さいわい)が無窮に流れるのは、
万世の長策(遠計)でございます」
宣帝はこの意見を採り、詔を下していった。
「五帝三王の教化が施かれていないところには政をおよぼさない、と聞く。
いま匈奴の単于が北藩を称し、正朔に来朝するが、
朕は不逮(ふつつか)で、これを広く覆うことができるほどの徳がない。
そこで、単于を賓客の礼でもてなし、単于の位序を諸侯王の上にせよ」
そして、単于に「称臣不名」を許した。
——これで、主上のおぼえもめでたくなったのではないか。
蕭望之は、ひそかにほくそ笑んだ。
石渠閣会議
甘露三年(紀元前五一年)、宣帝は五経異本の校訂のため諸儒を召集し、
五経の解釈の同異について講論させた。
董仲舒以来、『春秋公羊伝』が重んじられていたが、
宣帝には『春秋穀梁伝』を公認したいという意向があった。
その背景には、匈奴の単于に「称臣不名」を許したことを正当化する根拠の必要性に迫られたことがあった。
さらに、祖父と父が謀叛のかどで殺されたにもかかわらず、
自身が帝位に即けた事実を正当化したい意図もあったろう。
かれらは未央宮内の書庫というべき石渠閣で議論を交わし、梁丘賀の『易』、
大小夏侯(夏侯勝と夏侯建)の『尚書』、穀梁赤の『春秋(穀梁伝)』を学官に立てるよう具申した。
蕭望之らがその議論をまとめて奏上し、宣帝が決裁し、それぞれに博士官を立てた。
功臣画
甘露三年(紀元前五一年)、宣帝はみずからを輔佐してくれた功臣をなつかしみ、
画人に命じてかれらの肖像画を描かせ、未央宮内の麒麟閣に掲げさせた。
霍光
張安世
韓増
趙充国
魏相
丙吉
杜延年
劉徳
梁丘賀
蕭望之
蘇武
この十一人のうち、当時存命であったのは、蕭望之だけであった。
しかも、丞相の黄覇や御史大夫の于定国が功臣の画に列なっていなかった。
そのことをおもえば、大変な名誉である。
そのころ、黄覇が重病に罹っていた。
——いよいよ、われに大命が下るか。
と、おもいきや、三月に黄覇が亡くなると、于定国が丞相になった。
これには蕭望之も、落胆を隠せなかった。
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