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中国史人物伝

漢中興の功臣 丙吉(前漢)(2) 宰相の仕事

丙吉 (1) はこちら>>

霍光の死後、宣帝は丞相の魏相や許皇后の父である許広漢らを重用する一方、

霍氏から兵権を奪っていった。

霍光が専権をふるえたのは、兵権に加え、領尚書事も兼ねていたからである。

皇帝への上奏文(上書)は同じものを二通作成し、

尚書がまず目を通して皇帝に取り次ぐかどうかを決めた。

領尚書事は上奏文を検閲し、おのれに不都合なものを握りつぶすことができた。

霍光の死後に領尚書事を継いだ子の霍山は、霍氏に都合の悪い上奏文を却下していた。

しかし、宣帝は中書令が上奏文を皇帝に直接渡し、尚書を経ずに上奏できるようにした。

その結果、宣帝は霍氏の悪事を知るようになった。

焦った霍氏は、宣帝を廃し、霍光の子である霍禹を皇帝にしようと企んだが、

発覚して誅された。地節四年(紀元前六六年)のことである。

これで、宣帝はたれはばかることなく政治をとることができるようになった。

中国史人物伝シリーズ

目次

旧 恩

霍氏が誅され、宣帝が親政をはじめたころ、
「主上が嬰児のころ、お育て申しあげておりました」
という上書があった。
上書したのは、後宮の婢の則という者であった。
宣帝が事の真偽を掖庭令(後宮の女官を監督する宦官)に調べさせると、
「丙吉さまが、事情を存じております」
と、則が告げた。
そこで、掖庭令は則を御史府に連れていった。
丙吉は則の顔をみると、
「なんじは、かつて皇曾孫の養育におざなりで笞打たれた者。功労などあろうものか」
と、叱責した。
けれども、掖庭令の復命を受けた宣帝の対応は違った。
則の身分を解放して庶民とし、十万銭を賞賜したのである。
その上で、則を引見し、当時のことを諮問した。
――物心つかなかったころのことを知りたい。
宣帝の本心は、そこにあった。
則の話を聞いて、宣帝はようやく丙吉に助けられたことを知った。
――そんなこと、丙吉から聞いたことなかったぞ。
おもえば、丙吉がおのれの善行を誇ったことが、ただの一度たりともあったであろうか。
――なんという賢人であろう。
胸を熱くした宣帝は、丙吉を博陽侯に封じ、食邑千三百戸を授けた。
元康三年(紀元前六三年)のことである。

人材育成

神爵三年(紀元前五九年)に丞相の魏相が亡くなり、丙吉が丞相に任じられた。
かれは宮中で仕えるようになってから『詩』や『礼』を学び、その本質を熟知するようになった。

褒めて伸ばす

丙吉は丞相になると、寛大を尊び、礼譲を好み、下僚の過失をかばう一方、善行を称めた。
些細な過ちには目を瞑り、“褒めて伸ばす”、という人材育成方法であろうか。
部下の罪や収賄が発覚すると、ただちに長期休暇を与え、取り調べたりしなかった。
「あなたは漢の丞相なのに、姦吏が私利を遂げても罰しない」
賓客からそう非難されると、丙吉は、
「大臣のくせに部下の役人を尋問している、なんて評判が立てば、陋劣じゃないか」
と、応えた。
――曹相国(曹参)のようじゃ。
下僚たちは、そういって丙吉を敬慕した。

長所を視る

御者が酒に酔って、丞相の車の敷物の上に吐瀉したことがあった。
「あんなやつ、罷めさせましょう」
丞相府の役人がそう進言したが、丙吉は、
「酔っぱらってした失敗で士を棄てられようか。これはただ丞相の車の敷物を汚しただけのことにすぎん」
と、まったく取り合わなかった。
そのころ、匈奴が侵入し、辺郡が騒がしくなった。
「おそらく辺郡には、老病で兵馬の任に堪えない役人がいるのでしょう。調べておかれてはいかがでしょうか」
そう進言したのは、あの御者であった。
「なるほど」
丙吉はさっそく、属官に辺郡の役人について調査させた。
ほどなく宣帝に召されて、匈奴が侵入した郡の役人について下問を受けた。
これに対し、丙吉は詳細まで答えることができた。そのため、
「丞相は辺境を憂え、職責をおもう者じゃ」
と、宣帝から褒詞を賜った。
――御者のおかげじゃ。
丙吉はそう実感し、
「士にはみなそれぞれ長所があるもんじゃ。あのとき御者のいうことを聞かなかったら、
主上から労い励まされることはなかったじゃろう」
と、嘆息した。

宰相の職責

ある春の日、丙吉が外出すると、道で乱闘をしている者がおり、死傷者まで出ていたのをみた。
それなのに、丙吉は通り過ぎ、何も訊かなかった。
下僚たちは、これをいぶかった。
さらに進むと、牛を追う者がおり、牛が舌を出して喘いでいた。
丙吉は車を停め、
「牛を何里追ってきたのか」
と、下僚にたずねさせた。
「訊く相手があべこべじゃないのか」
下僚のなかには、丙吉の悪口をいう者までいた。
「民の乱闘は、長安令や京兆尹の仕事じゃ。丞相は歳末にかれらの働きを評価すればよいだけのこと。
宰相はみずから小事に関わるべきじゃない。
今は春で、まだ暑くなってはならない。もしかすると、牛は少し歩いただけでも暑くて喘ぐかもしれん。
これは時候が季節に外れているわけじゃから、禍が起こるのを恐れておるんじゃ。
三公(丞相・御史大夫・大司馬)は陰陽を調和させるのが仕事であり、
職責上憂慮すべきことであるゆえ、問うたんじゃ」
丙吉がそう存念を述べると、下僚たちは、
――さすがに大局をご存知じゃ。
と、ことばを吞むしかなかった。

推 挙

老齢の域にあった丙吉は病がちであり、罹病するたびに辞任を願いでたが、その都度宣帝から慰留された。
五鳳三年(紀元前五五年)、丙吉の病が重くなった。
宣帝はみずから丙吉の病牀を見舞い、
「もしあなたに万一のことがあれば、たれに任せればよいか」
と、諮うた。
「群臣のことは、明主だけがご存知で、愚臣にわかるものではございません」
丙吉は辞退したが、宣帝がぜひにと意見を求めたので、丙吉は頓首し、
「西河太守の杜延年は法制に明るく、故事先例に通じております。廷尉の于定国は公平な裁きで評判です。
また、太僕の陳万年は継母に仕えて孝行で、誠実です。三人の才能は、いずれも臣の右に出るものと存じます」
と、推挙をおこなった。
ほどなく、丙吉は亡くなった。
かれが推挙した三人は、かわるがわる御史大夫となり、みな適任であった。
「丙吉には、人を知る明があった」
宣帝は、そういって丙吉を称めた。

麒麟閣

甘露三年(紀元前五一年)、宣帝は自らを輔佐してくれた功臣を懐かしみ、
画家に命じてかれらの肖像画を描かせ、未央宮内の麒麟閣に掲げさせた。
霍光、魏相、杜延年ら
「麒麟閣十一功臣」
と、呼ばれる十一人の功臣の画のなかに、丙吉の像もあった。
これが、宣帝なりの報恩なのであろう。
丙吉は、死後も誉聞にくるまれた。

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