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中国史人物伝

賢人か刺客か ふたつの名と面をもつ俠士 曹劌(春秋 魯)曹沫と同一人物か?

春秋時代を代表する名君斉の桓公に匕首を突き付け、領地を割譲させた刺客
曹沫
の活躍に、多大な印象を受けた人は少なくないのではなかろうか。

『史記』刺客列伝に記された曹沫の活躍は、『春秋左氏伝』に記されていない。

『春秋左氏伝』には、当時の魯の臣に、曹劌という人物の名がみられる。

この曹劌が、曹沫と同一人物であるという説がある。

中国史人物伝シリーズ

目次

中華随一の文化国

魯の始祖である周公旦は、兄の武王を輔け、周王朝の基礎を固めた。
その功により、魯は周王から祭天など天子の礼楽を許された。
春秋時代にはいり、周王室が衰えると、
「周の文化は、魯に伝わった」
と、いわれるようになり、魯は中華随一の文化国家となった。
だが、武力はそれに伴わず、隣国の斉に軍事力で圧倒されていた。

長勺の戦い

魯の桓公十八年(紀元前六九四年)、魯の桓公が斉の襄公に殺された。
桓公のあとをついだ子の荘公は、斉に遺恨をいだいたものの、
国力の差が大き過ぎて、報復する機会を得られなかった。
八年後の荘公八年(紀元前六八六年)に斉の襄公が殺され、
その弟たちが君主の席をめぐって争い、桓公が翌年に即位した。
それに対し、魯は公子糾を擁して斉と乾時で戦ったが、敗れてしまった。
このため、情勢が緊迫し、斉が魯に侵攻してきた。
魯の荘公は、これを邀え撃とうとした。

戦う条件

「君に申しあげねばならぬ」
国境付近にいた曹劌はたまらず、荘公に謁見を願い出ようとした。
「肉食の者(貴人)が謀っておられるのに、口出しなんかしてどうなるんじゃ」
郷人からそういわれ、曹劌は、
「肉食の者は阿呆じゃ。先のことなんて考えられへん」
と、返した。
曹劌は魯の首都曲阜へゆき、荘公に謁見した。
「なにをたのみに戦われるのでしょうか」
曹劌がそう切りだすと、
「われは衣食を独り占めせず、人民に分け与えている」
と、荘公は応えた。曹劇は、首を横にふった。
「それでは恩恵が小さく、あまねくゆきわたりませんので、民は従いません」
「祭祀には、必要以上に犠牲や玉帛を用いておらぬ」
「祭礼が豊かでなければ、神に祝福されません。恩徳を施さなければ民は心服せず、神の祝福も得られません」
「訴訟は大小を問わず、かならずまごころを尽くしておこなっておる」
荘公がそういうと、曹劇はようやくうなずき、
「それなら、戦えます。お供させてくださいませ」
と、願い出た。

長勺の戦い

荘公十年(紀元前六八四年)正月、魯軍は、曲阜の東北にある長勺で斉軍と戦った。
周公旦の子伯禽が魯に封じられたときに、殷民六族を賜ったとされる。
そのひとつであった長勺氏が本拠とした地で、両軍が対峙した。
「なめたまねをしおってからに。目にものをみせてくれよう」
荘公がそういって、出撃の太鼓を打とうとした。
しかし、荘公の兵車に同乗していた曹劌が、
「まだ、いけません」
と、いって止めた。
斉軍が三度太鼓をうち、攻めかってきた。
そこで、曹劌はようやく、
「いまです」
と、進言した。
魯軍は一斉に攻めかかり、斉軍を大いに撃ち破った。
「よしっ、追撃じゃ」
荘公が昂奮しながらそういうと、曹劌は、
「お待ちください」
と、制し、兵車から降りて斉の兵車の轍を視て、
軾(兵車の前の横木)にのぼり、敗走する斉軍を望見してから、
「いいでしょう」
と、いい、追撃をおこない、大勝した。

鼓 作

「あれは、どういうわけか」
荘公からそう諮われ、曹劌はつぎのように応えた。
「戦は勇気です。士気は、一番太鼓で奮い立ちますが、二番太鼓で衰え、三番太鼓で尽きはててしまいます。
むこうは士気が尽き、わが方は士気に満ちあふれている。それゆえ、勝てたのです。
また、大国は何をしでかすかわかりませぬゆえ、伏兵があるのではないか、と懼れました。
そこで斉の兵車の轍を視ましたところ、乱れており、また、
旗を望見しましたところ、靡いており、先を争って逃げておりましたので、追いました」
やる気をみなぎらせ、一気に成し遂げるという意で使われる
一鼓作気
は、ここから生まれた成語である。

不法を諫める

荘公二十三年(紀元前六七一年)、荘公が社祭を観に斉へ往こうとした。
曹劇がそれを知り、荘公を諫めた。
「いけません。礼は、民を正すためのものです。
それゆえ、先王は諸侯の制度を定め、五年のうち四たび朝覲し、一度は諸侯がたがいに聘問します。
そこで礼を習い、班爵にかなうようにし、長幼の序にしたがい、上下のきまりを教え、
貢賦を定め、従わないものを征伐するのです。
諸侯は朝覲し、王は巡守することで、おおいに礼を習わせるのです。さもなければ、君主はでかけません。
社祭をおこなうのは、時候を助けて豊作を祈るためです。
いま君が社祭を観に斉へゆき、そこに集まった民を観るのは先王の教えではありません。
諸侯がたがいに集まって祀るなんて、臣は聞いたことがございません。
君主の行動はかならず書き記されます。
記しても法にそぐわなければ、ご子孫は何を先例にすればよいのでしょうか」
しかし、荘公は聴き容れず、斉へ往ってしまった。

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