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中国史人物伝

賢妻の言に従い、亡命中の晋の文公に恩徳を施した曹の大夫 僖負羈(春秋 曹)

曹は、文王の子叔振鐸が陶丘に封じられたことにはじまる。

陶丘は、現在の定陶である。

『三国志』で、曹操と呂布が戦ったところ、といった方がよいであろうか。

春秋時代にはいり、周王が諸侯を統制できなくなると、

宋や衛などは、他の邑を攻め取って版図を拡げたが、

曹は、陶丘のみを治める小国のまま変わらなかった。

曹に侵略欲がなかったのは、君主の気宇が巨きくなかったこともあろうが、

東西交通の要地である陶丘を押さえていて、潤っていたからではあるまいか。

ともかくも、小国である曹が天下の動向に影響を及ぼすことは皆無であった。

しかし、春秋時代を代表する名君晋の文公重耳に怨まれ、報復されたことがあった。

一方で、亡命中の文公に恩徳を施した曹の大夫がいた。

中国史人物伝シリーズ

目次

恩 徳

駢 脅

紀元前六三七年、亡命中の晋の公子重耳が、曹に立ち寄った。
曹の共公は、重耳を館舎に泊めたものの、礼遇しなかった。
そればかりか、重耳が湯あみをしているときをみはからい、簾越しにその裸体を覗きみた。
「重耳は、駢脅らしいです」
と、側近からきかされたからである。
駢脅は、一枚あばらのことで、肋骨がくっついて一枚の骨のようにみえるものをいう。
そんなものをおもしろがったのであるから、共公は相当な奇癖の持ち主であったとしかいいようがない。
――これは、まずい。
と、感じた大夫がいた。
僖負羈である。
「晋の公子は、賢人です。
それにお付きの方がたを拝見いたしまするに、みな一国の宰相にふさわしい方ばかりにございます。
あの方がたが公子をお輔けなされば、必ず晋に帰り、諸侯の盟主になりましょう。
そうなってから無礼な者を誅伐するのであれば、まずは曹からでしょう。
あなたはどうして早く公子に誼を通じておこうとなさらないのでしょうか」
妻からそういわれていた僖負覊は、食事を盛った食器の下に璧を忍ばせて重耳に贈った。
恭順の意を示したのである。

三つの常道

重耳は食事だけを受け取り、璧を返してきた。
――たいしたものだ。
重耳の対応に感心した僖負覊は、共公に拝謁し、
「晋の公子が、来られました。君と同等のご身分の方でいらっしゃいますから、礼遇なさいませ」
と、進言した。しかし、共公は、
「亡命公子は数多おり、みなここを通り過ぎるのじゃ。
他国に逃げる連中は、みな無礼者じゃ。なにゆえ礼遇せねばならんのか」
と、にべもなくはねつけた。
「親族を愛し、賢人を明らかにするのは政治の根幹であり、
賓客を礼遇し、困窮に陥った人を矜むのは礼の大本である。
礼でもって政治を正すのは、国の常道である。臣は、そう聞いております。
常道を失えば成り立たないのは、君がご存じのことです。
国君には親しい者などございません。国を親しむだけです。
曹の始祖である叔振は文王の御子で、晋の始祖である唐叔は武王の御子です。
文王と武王の功により、実に多くの姫姓の国が建てられました。
それゆえ文王と武王の子孫は、代々親しくしてきました。
それをいまになって見棄てるのは、親族を愛しないことになります。
晋の公子は亡命し、卿にふさわしい人材が三人も従っているのは、賢人というべきですのに、
君が軽視なさるのは、賢明ではございません。
晋の公子が亡命した事情は憐れむべきであり、賓客として礼遇しなければなりません。
そうしなければ、賓客を礼遇せず、困窮に陥った人を憐れまないことになります。
天が集めたもの(財と民)を守る者は、義を施そうとし、
そうしなければ、せっかく集めた物を失うことになりましょう。
玉帛酒食など、糞土のようなものです。
それを愛しんで三つの常道を毀損し、
国君の地位を失って天が集めたものを失うことを恐れないのは、いけないことではありませんか。
君にはどうかよくお考えくださいますよう」
僖負覊は言を尽くして、必死に食い下がった。
しかし、共公は聴き容れず、重耳を礼遇しなかった。
重耳は、曹を去った。

報 恩

その後、曹は南方の大国である楚の盟下にはいった。
一方、重耳は十九年に及ぶ亡命生活を終えて帰国し、君主になった。文公である。
文公は晋を立て直し、周王室の内紛を収め、中原に勢力を広げようとしていた。
紀元前六三二年、晋は楚に攻められた宋を救うと称して兵を挙げ、河水(黄河)を渉り、曹に攻め入った。
三月、曹の都城が晋軍に制圧された。
文公が城内に乗りこんできて、
「僖負覊を用いずに、くだらぬ者を三百人も軒(大夫の乗る車)に乗せるとはなにごとぞ――」
と、共公のでたらめな人事を責め立て、恐れ入って平伏した共公に、
「あばら骨を、お見せいたそう」
と、いい、肌を脱ごうとした。文公はさらに、
「僖負覊の邸には、入ってはならぬ」
と、厳命し、僖負覊やその一族に危害が及ばないよう手配してくれた。
――妻のおかげじゃ。
妻の目利きを信じたことで、僖負覊は面目をほどこした。

その夜、僖負覊の邸が火事に遭った。
僖負覊が君主に厚遇されることを快くおもわない文公の寵臣に、火をつけられたのである。
いかな名君であっても、群臣と心をひとつにすることは、難しいらしい。

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