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中国史人物伝

おはようからおやすみまで重耳をつけ狙った宦官 勃鞮(寺人披 閹楚)(春秋 晋)(1) 暗殺

春秋五覇の筆頭というべき斉の桓公は、管仲に射殺されかけた。

桓公とならぶ名君と称される晋の文公(重耳)も、宦官の勃鞮から執拗に襲われた。

勃鞮には、数多の呼称がある。

『左伝』には、寺人披(僖公五年、僖公二十四年)、勃鞮(僖公二十五年)
『国語』(晋語)には、閹楚、勃鞮、伯楚*
『史記』(晋世家)には、勃鞮、履鞮

他に、履貂、勃貂などと呼ぶ書物もある。
寺人も閹も、宦官のことである。

はたして、どれがかれの本名であろうか。**

勃鞮は後宮警護官で、膂力にすぐれていた。

君命を果たそうと一途な誠忠の人であったかれの名は、英雄重耳を襲ったことで高まった。

*韋昭の注釈によれば、寺人披のあざなが伯楚であるという。
**本稿では、勃鞮で通す。

中国史人物伝シリーズ

目次

惑 乱

紀元前七世紀前半に晋の君主であった献公は、晩年に驪姫を夫人にし、溺愛した。
――わが子奚斉を太子に立てたい。
そう望んだかの女は、太子申生の悪口を献公の耳に吹きこんだあげく、自殺に追い込んだ。
紀元前六五六年のことである。
――つぎは、重耳と夷吾じゃ。
驪姫がさらに二公子を讒言したため、重耳は蒲へ、夷吾は屈へ逃げた。

袂を斬る

紀元前六五五年、勃鞮は献公に召しだされ、
「蒲へゆき、重耳を除いてまいれ」
と、命じられた。
勃鞮はわずかな従者だけを連れて蒲へゆき、重耳に面会を求め、
「君命である」
と、いうや、剣を抜いて重耳に襲いかかった。
重耳は外へ飛び出し、垣(土塀)をめがけて走っていった。
勃鞮は、重耳を追いかけた。
さらにその後を、重耳の家臣たちが追いかけてきた。しかし、
「君父の命に、逆らってはならぬ。歯向う者は、わが讎じゃ」
と、重耳が叫ぶと、かれらは追うのをやめた。
重耳は、垣をよじ登りだした。
「死ねっ――」
勃鞮は、下から剣で斬りつけた。
だが、手ごたえはなかった。
重耳のすがたは、垣のむこうへ消えていった。
「くそっ」
そう小さくつぶやいた勃鞮の頭上に、重耳の衣の袂の切れ端が舞い落ちてきた。

再 命

重耳は蒲を去り、翟(狄)へ奔った。
屈にいた夷吾は献公から兵をむけられ、梁へ亡命した。
そして、奚斉が太子に立てられた。
紀元前六五一年に献公が亡くなると、重臣の里克らが驪姫や奚斉を殺し、重耳を迎え入れようとした。
しかし、重耳に固辞されたため、夷吾を迎立した。これが、恵公である。
恵公は里克らを殺し、帰国の際に秦と交わした約束を反故にした。
その頃、晋は連年の凶作で困苦し、秦から援助を受けていた。
それなのに、秦が凶作になると、恵公は秦からの援助要請を拒んだ。
秦の穆公は恵公の仕打ちに激怒し、紀元前六四五年に兵を挙げて晋を攻めた。
韓原の戦い
と、呼ばれるこの戦いは、秦が大勝し、恵公を捕えた。
恵公は領地の割譲と太子圉を人質に出すことを秦に約束して、何とか帰国を許された。
翌年、狄が晋の敗戦につけこんで侵攻してきた。
勃鞮は恵公に召しだされ、
「ちょっ、重耳を、こっ、殺せ」
と、命じられた。
重耳が狄に亡命して十二年になるが、晋国内でかれに対する徳望は高まるばかりで、
その帰国を望む者が後を絶たない。
それに、恵公自身、兄の重耳を差し置いて君主になった負い目があった。
勃鞮は狄へゆき、重耳を殺害する機会を窺った。

渭 濱

紀元前六四四年、重耳は狄の君に誘われて渭水のほとりで狩りをした。
狩りがはじまると、各々が禽獣を追いかけて四方に散ってしまい、重耳の兵車の周りに人がいなくなった。
その間隙を衝いて、勃鞮は重耳めがけて矢を放った。
馬が驚いて跳びあがった拍子に、重耳が兵車から投げ出された。
「死ねっ――」
勃鞮はそう叫びながら、剣を手に跳躍した。
重耳はその剣先をかわし、起ちあがって逃げた。
その先に狄兵のすがたがみえた。
――ちっ、運のよいやつめ。
勃鞮は、舌打ちするしかなかった。
その後、重耳は狄を去った。
勃鞮はそれを見届けてから晋に帰り、恵公に復命すると、
「たれが帰ってよいといった」
と、怒声を浴びた。
「われは、重耳を殺せ、と命じたはずじゃ。重耳を殺すまで、帰ってきてはならぬ」
勃鞮は、ふたたび重耳を追いかけた。
重耳は、中原を彷徨っていた。
勃鞮はその跡をつけながら、絶えず間隙を狙いつづけた。

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