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中国史人物伝

剛直で節を通した博識の名士 虞翻(三国 呉)(2) 古の狂直

虞翻(1)はこちら>>

虞翻はありあまる才がありながら、孫権に疎んぜられ、放逐された。

虞翻とかかわりのあった王朗や華歆は、のちに魏に移り、三公に昇った。

魏の文帝(曹丕)は、いつも虞翻のために虚坐(空席)を設えていたという。

もし虞翻が郷里へのこだわりを捨てて魏に移ったならば、

呉にいたときよりも重用されたであろうか。

中国史人物伝シリーズ

目次

免 死

黄武元年(二二二年)、孫権が呉王になり、祝宴が催された。
宴が終わりにさしかかった。
孫権が立ちあがり、みずから群臣に酒をついでまわった。
虞翻は床に伏せて酔ったふりをして、杯を受けなかった。
ところが、孫権が去ると、虞翻は起坐した。
孫権は憤怒し、剣を手にとり、虞翻に撃ちかかってきた。
満座が恐れあわてるなか、大司農(財務大臣)の劉基(揚州刺史劉繇の子)だけが立ちあがり、孫権を抱いて、
「大王が酒に酔って善士を殺せば、虞翻に罪があったからとて、たれがわかってくれましょうや。
大王が賢を容れ、衆を養われますので、海内に慕われているのでございます。
いまここで天下をがっかりさせてよいものでしょうか」
と、諫めた。
「曹孟徳(曹操)は孔文挙(孔融)さえ殺したではないか。孤(諸侯の一人称)が虞翻を殺して何が悪い」
孫権がそういい返したが、劉基は、
「孟徳どのが軽々しく士人を殺害するのは、天下で非難されております。大王はみずから徳義を実行され、
堯舜に並ばんとされておりますのに、どうしてご自身をかれなどに喩えられましょうや」
と、冷静に諭した。
劉基は孫権を懸命に説得して思いとどまらせ、虞翻はなんとか死を免れることができた。
孫権は、酔いが醒めてから、
「今後、酒が入ったうえでわしが殺すといっても、けっして殺してはならんぞ」
と、近臣に命じた。

降将麋芳

あるとき、虞翻が船に乗って出かけていると、麋芳の船が近づいてきた。
麋芳の船には、人が数多乗っていた。
「将軍の船を避けよ」
麋芳の先導からそういわれたが、虞翻が、
「忠と信を失って、どうやって君に仕えるのか。二城を取られて将軍と称してよいものであろうか」
と、いいかえすと、麋芳は船の戸を閉めて応じず、あわてて虞翻の船を避けさせた。
のちに、虞翻が車で出かけ、麋芳の営門まできた。
しかし、軍吏が門を閉じたため、車は通ることができなかった。
「閉めるべきときに開け、開けるべきときに閉める。ことのよしあしをわかっているのか」
虞翻が怒ってそう喚ばわると、麋芳は深く恥じた。

流 謫

放 逐

虞翻は相手の機嫌にかまわずに直截な物言いをして、酒での失敗が少なくなかった。
孫権が張昭と論じ合い、話題が神仙のことに及んだとき、虞翻が張昭を指さしながら、
「死人が神仙を語ってら。仙人などおるもんか」
と、嘲った。
このように孫権の機嫌を損ねることが度重なり、ついに交州へ徙されてしまった。

憂 国

虞翻は罪を得て追放されても、呉国のことが気がかりでならなかった。
「武陵郡の五谿の蛮夷の動きが不穏じゃ。討つべきじゃ」
「遼東は海で隔てられているので、向こうから帰服してきたのを許したとしても、呉には得るものがない。
それなのに、こちらから人や財宝を送って馬を求めるのは、国の利にならず、何も得られないのではないか」
虞翻は憂えを上表文にしたため、交州刺史の呂岱にみせた。
しかし、呂岱からの返事がくるまえに、讒言に遭って、蒼梧郡の猛陵へ徙された。
それでも虞翻は講学に倦まず、門徒はつねに数百人に及んだ。
虞翻は、『老子』『論語』『国語』に注釈をほどこし、みな世に伝えられた。
「節を通して他人に合わせることができず、君のご機嫌を損ねて罪を得、
海隅に埋もれなければならぬおのれが恨めしい。
生きてともに語りあえる相手などおらず、死んでも青蠅しか弔ってくれるものがいない。
もし天下にひとりでもおのれを知ってくれる者がいれば、思い残すことはないんじゃが」
そう嘆いた虞翻は、典籍によってみずからをなぐさめ、『易経』の注釈を著述し、吉凶を占った。

最 期

虞翻は流所にいること十余年、いつか都に還る日がくることを待ち望んでいたが、
それがかなわないまま、嘉禾二年(二三三年)に七十歳でこの世を去った。
孫権は遼東の誘引に失敗すると、
「虞翻は誠実で正しく、よく言を尽くして諫めてくれた。
もしあのとき虞翻がここにいてくれたなら、こんなことにはならなかったんじゃ」
と、後悔し、
「虞翻がまだ生きているならば、都に還らせよ」
と、交州に詔命した。
そのときには、虞翻はすでに亡くなっていた。

人物眼

虞翻は唯我独尊で、上尊に疎まれ、同僚から避けられていたかのような印象を受けるが、
決して狷介固陋であったわけではなく、名家の出であった陸績とは親しくつきあった。
さらに、他人の異才を認め、後進を引き立てたりもした。
まだ一介の県吏にすぎず、無名に近かった丁覧や徐陵に一度会っただけですぐに友となり、
かれらの名が顕れるようもり立て、徐陵にいたっては、
「叔向が晋で受けたよりも手厚い待遇を受けておられる」
と、虞翻が述べるほど朝廷で重用されるまでになった。
虞翻が交州へ流される途中で豫章を通ったとき、県吏の聶友が見送りにきた。
――奇なり。
虞翻は聶友と語って感心し、豫章太守の謝裴に手紙を送り、聶友を功曹にするよう薦めた。
のちに、聶友は諸葛恪に重んじられ、評価を高めた。
虞翻の人物眼の確かさは、このようであった。

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