Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//古の狂直 剛直で節を通した博識の名士 虞翻(三国 呉)(1) 琥珀

中国史人物伝

古の狂直 剛直で節を通した博識の名士 虞翻(三国 呉)(1) 琥珀

『三国史』で、酒で失敗が多い人物といえば、張飛を思い浮かべる方が多いのではなかろうか。

実は、呉の孫権も酒席での失態が多かったらしく、

「今後、酒が入ったうえでわしが殺すといっても、けっして殺してはならぬ」

と、近臣に命じたことがあった。

このとき、かれが殺そうとしたのが、

虞翻(あざなは仲翔)(164-233)

であった。

仲翔といえば、横山光輝『三国志』で、王朗の下から去る際に、

飼っていた小鳥を自分と重ね合わせ、小鳥を籠から放つ描写が印象に残っている。

正史にも演義にもないこの描写は、横山先生がもとにした吉川三国志の創作であるらしい。

仲翔は、ほほ笑みながら、青空へ溶け入る小禽の影を見送っていた──

これから生きる自分のすがたと同じものにそれが見えたからであろう。

(吉川英治『三国志』草莽の巻 名医)

虞翻は、正史では、

「古の狂直」(『三国史』虞翻伝)

と、評されている。

才能があっても個性が強い人物は、使用者からすれば、扱いに苦慮する存在なのであろう。

中国史人物伝シリーズ

目次

琥珀と塵芥

虞翻は会稽郡余姚県の出身で、若いころから学問を好み、気高さがあった。
かれが十二歳のときのことである。
かれの兄を訪ねたものの、かれに挨拶せずに去った客がいた。虞翻は、その客に、
「琥珀は腐った塵芥を引きつけず、磁石は曲がった鍼を引きよせない、と僕は聞いております。
おいでいただきながらお訪ねいただけなかったのも、もっともなことです」
と、当てこすった手紙を書いて送った。
これで評判を高めた虞翻は、長ずると仕官して、会稽郡の功曹(人事部長)になった。

小覇王孫策

建安元年(一九六年)、虞翻は父の虞歆の喪に服していた。その最中、
――孫策が会稽に攻めこんできた。
と、聞かされて、居ても立っても居られず、喪服を着たまま郡の役所の門まできた。
服喪中は、役所にはいることができなかった。
そこで、虞翻は喪服を脱ぎすてて役所に入り、会稽太守の王朗に面会すると、
「戦ってはなりません。お逃げくだされ」
と、訴えた。
しかし、孫策に威名がなく、兵力も少なかったため、王朗は防げると判じて戦ったものの、
敗れ、船で海上に逃れた。
虞翻は王朗のあとを追い、追いつくと、王朗を護りつつ東部候官に到った。
候官の長官は、城門を閉じて一行を拒んだ。
だが、虞翻が長官を説き、入城することができた。ほどなく、
「卿には年老いた母上がおられる。還られたほうがよろしい」
と、王朗にいわれた。
会稽に帰ると、孫策から、
「卿とともに事に当たりたい。郡吏として扱うとはおもわないでもらいたい」
と、いわれ、功曹に任じられた。
孫策は虞翻を友人としての礼で遇し、みずから虞翻の家を訪ねたりした。
虞翻はこれに感奮し、孫策に従って各地を転戦して三郡を平定し、豫章太守の華歆に孫策に降るよう説いた。

暗 殺

虞翻は孫策が狩りを好み、軽々しく単独行動をとることが多いのを諫めた。
はたして、孫策は狩りでひとりになったところを狙われて、殺された。
このとき、虞翻は富春県の長であった。
長吏(上級役人)はみな葬儀にかけつけようとした。
「隣県の山民が姦変をなさないかどうか心配なときに、城郭を空けて遠くへ往けば、
きっと不慮の事態がおこるであろう」
虞翻はそういってかれらを引きとめ、任地で喪に服した。
他の県もみなこれにならったため、みな無事であった。

易の講究

――経書で、易ほど重要なものはない。
かねがねそう述べていた虞翻は、家学である易の研究に没頭し、
「奥深くまで通じている」
と、孔子二十世の孫である少府(宮中の器物を管理する大臣)の孔融をうならせ、
孫策からの信頼が篤い張紘からも高く評価されていた。
のちに、虞翻は州の役所から茂才に挙げられ、漢朝から侍御史(監察官)として召されたが、
いずれにも応じなかった。
さらに、曹操が司空(副首相)になると辟召されたが、
「盗跖が、余財で良家のものを汚そうというのか」
と、いって、拒絶した。
虞翻は、孫策のあとをついだ孫権から騎都尉(親衛隊長)に任じられた。
虞翻は孫権の機嫌を推しはかることなく、顔色を犯してでも諫争した。
しかも、周囲と同調しなかったため、非難されることが多かった。
そのため、虞翻は罰せられて丹楊郡の涇県へ徙された。
しかし、重臣がこの才士を埋もれたままにしておかなかった。

挽 回

建安二十四年(二一九年)、荊州に駐屯していた関羽が樊城討伐にむかうと、
孫権は呂蒙に荊州を襲うよう命じた。
病がちであった呂蒙は、医術に明るいとして虞翻を推挙して従軍させた。
呉軍が江陵に至ると、南郡太守の麋芳が城門を開いて投降してきた。
呂蒙はすぐに城内へ入ろうとはせず、城外で酒宴を催そうとした。
虞翻は、それを知って、
「いま麋将軍にはふた心がないかもしれませんが、城中の人はどうなのかわかりません。
なにゆえただちに入城し、管籥(鍵)を奪い取らないのですか」
と、呂蒙に進言した。
呂蒙はすぐさまそれに従った。
はたして、城中では兵を伏せて急襲しようとしていたが、虞翻のおかげで不意討ちに遭わずに済んだ。
その後、関羽が敗れると、その命運を筮竹で占うよう孫権から命じられた虞翻は、
「二日もしないうちに、必ずや頭を断れましょう」
と、応えた。はたして、そのことば通りになった。
「卿は伏羲(易の八卦を最初に創ったとされる古代の帝王)には及ばないまでも、
東方朔とは肩を並べられよう」
孫権は、そういって虞翻を称めた。

降将于禁

江陵の城中には、関羽に敗れた魏将の于禁が繋がれていた。
曹操に従って幾多の戦いで多大な功を立て、魏の名将とうたわれた人物である。
「会おう」
孫権がそういうと、虞翻は、
「于禁は数万もの兵を失いながら死ぬことができず、捕虜になった者です。
斬って、人臣でありながらふた心をいだく者へのみせしめになさいませ」
と諫止したが、孫権は聴きいれず、于禁の縄目を解かせた。
それ以来、虞翻は于禁を憎悪した。
于禁とおなじ空気を吸うことでさえ、虞翻にはけがらわしく感じられた。
ある日のこと、孫権が馬で出かけたとき、于禁を招き、馬をならべて進ませようとした。
そのようすを苦々しくみていた虞翻は、こらえきれなくなり、
「降虜のなんじが、どうしてわが君と馬首をならべたりするのか」
と、于禁を呵𠮟し、鞭を振りあげて于禁を撃とうとしたが、
「やめよ」
と、孫権に止められた。
のちに、孫権が群臣を楼船(二階建ての屋形船)に集めて酒宴をもよおした。
虞翻は、于禁が音楽をきいて流涕したのをみて、
「なんじは、そんな心にもないことまでしてい赦してもらおうとするか」
と、なじった。
孫権は、不愉快そうであった。
その後、呉は魏と和睦し、于禁を魏に還帰させることになった。
「于禁を殺すべきです」
虞翻は孫権にそう訴えたが、聴きいれられなかった。
群臣が于禁を見送った際、虞翻は于禁に、
「呉に人がいないなんておもうなよ。わが謀が用いられなかっただけのことじゃ」
と、いった。
不思議なことに、あれだけ厳しく当たられていたにもかかわらず、
于禁は帰国すると、しきりに虞翻を賛嘆した。
魏の文帝(曹丕)にいたっては、いつも虞翻のために虚坐(空席)を設えていたという。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧