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中国史人物伝

問鼎 長じても怜悧さを失わなかった神童 王孫満(春秋 周)

『三国志』で、黄巾賊が猖獗をきわめていたころ、

公孫瓉の傘下にいた劉備が、北海国の相であった孔融から援軍を要請され、

「孔北海どのが、天下に劉備がいることをご存知であったとは――」

と、驚嘆したらしい。

孔融は孔子二十世の孫で、童幼時から利発さを発揮していた。

当時、河南尹(都知事)であった李膺は、すぐれた人物か通家でなければ会わなかった。

それゆえ、李膺に面会が許された人物は、
「登竜門」
と、いわれ、李膺の後援で出世を果たし、名声を得た。

まだ十余歳にすぎない孔融は、面識のない李膺の邸をいきなり訪ね、

「われは、李君の通家の子弟です」

と、大胆にも門番に告げ、李膺との面会を許された。

「あなたのご先祖は、わが家とどんなつきあいがおありかな」

李膺からそう問われ、孔融は、

「わが祖孔子は、あなたさまの祖李老君(老子)の弟子でした」

と、応えた。

これには、李膺も感心するしかなかったであろう。

その後、遅れてやってきた陳煒という高官が、李膺のそばにいた孔融に怪訝そうな顔をむけ、

「幼いときに聡くても、長じても賢いとは限らんぞ」

と、からかうと、孔融はすかさず、

「それではあなたは幼いころさぞかし賢かったでしょうね」

と、返した。

「あなたは、きっと偉器になりましょう」

李膺は哄笑しながら、孔融にそういった。

陳煒のいうように、神童と呼ばれながら、長じて凡人になりさがる人は少なくない。

しかし、中には童幼時にみせた利発さを、長じても失わなかった人物もいた。

周の共王の末裔といわれる王孫満も、その一人に挙げられよう。

中国史人物伝シリーズ

神童 王孫満

問 鼎

目次

黒い軍団

「何だ、あれは――」
紀元前六二六年の初め、都人士は北西からあらわれた黒い軍団を指さしながらざわめきあった。
旗印には、「秦」と書かれていた。
黒は、西方の秦の軍装である。
――まさか王都を襲うのではあるまいな。
都人士は、近づきつつある黒く大きな兵馬の塊をまえに戦慄した。
しかし、秦軍は王都の北門を通過して東へむかった。
その際、冑を脱いだ甲士がつぎつぎに兵車から降りてはふたたび跳び乗った。
周王に敬意を示したのである。
これが三百乗に及んだという。
このようすを王城から観た都人士の多くは、ほっと胸をなでおろした。
しかし、まだ童子であった王孫満の反応は違った。
秦軍の非礼に憤ったかれは周の襄王に拝謁し、
「秦軍に必ず天譴が降りましょう」
と、激しい口調で告げた。
襄王からそのわけをたずねられると、かれは、
「秦軍は軽忽で無礼です。必ず破れましょう。軽忽だと謀が少なく、無礼だと放漫になります。
険難の地に入って放漫で、謀もないのですから、敗れないわけがないではございませんか」
と、辛辣なことをいった。
童子の言とはいえ、襄王も苦笑するしかなかったであろう。
秦軍は、攻撃目標であった鄭に攻めこめずに引き返した。
その帰途、晋に急襲され、三人の将が捕らえられるという大敗を喫した。
これこそ、王孫満が予言した天譴であった。

問 鼎

王孫満はまだ童子であったとき、王都の前を横切ってゆく秦兵の敗亡を予言するという利発さをみせた。

童幼の時に早熟であっても、長じてしまえば凡庸になってしまう場合が少なくない。

二十一年の時を経て、壮年の域に達しようとする王孫満が、ふたたび歴史の表舞台に登場することになる。

慰問使

紀元前六〇六年、南方の大国である楚が大軍を発して北上し、
王都の郊外に全軍を勢ぞろいさせて観兵式をおこなった。
武力で周を威したのである。
王都は、震撼した。
このとき、定王(襄王の孫)が即位したばかりで、周には楚と戦端を開く力もなかった。
そのため、懐柔策をとることとし、楚の荘王を慰問する使者を発することにした。
その使者に択ばれたのが、王孫満であった。

問 鼎

王孫満は荘王の陣中を訪ね、慰労のあいさつを述べようとした。
それを荘王はさえぎり、
「鼎の大小軽重は如何」
と、問いを浴びせかけた。
鼎は九鼎ともいわれ、夏の禹王の時に造られたとされ、
夏から商(殷)を経て周へ伝えられた伝国の宝器であった。
日本の三種の神器を想えばよいであろう。
鼎の軽重を問うことで、
――楚は、周に替わって天下を治めることができる。
と、威したのである。
応えに詰まろうものなら、それこそ荘王の思う壺であろう。
ところが、王孫満は威しにひるむどころか、
「徳に在りて鼎に在らず」
と、返した。
荘王は鼻哂し、
「そこもとは、鼎を頼みにしてはならない。
楚では先端が折れ曲がり使えなくなった武器の折れ端を集めても、鼎を造るに十分であろう」
と、誇らしげにいった。
すると、王孫満は、
「ああ、君はお忘れになられたのでしょうか」
と、ひと息おいてから、
「昔、夏の盛時に遠方の諸侯が夏王の徳に懐き朝貢してきたので、鼎を鋳造し、それに百物の形象を彫りつけて魑魅魍魎への備えとし、民が魔物を見分けられるようにしました。桀王が悪徳であったため、鼎は商へ遷り、六百年経ち、紂王が暴虐であったため、鼎は周へ遷りました。徳が大きければ鼎が小さくても重く、邪で乱れていれば大きくても軽いのです。天が明徳を嘉したとしても、止まるところがございまして、成王が鼎を郟鄏(洛陽)に置かれ、周の世がどれだけ続くか占わせたところ、三十代、七百年ということでした。これが天命にございます。今、周の徳は衰えてはいますが、天命はまだ改まっておりません。鼎の軽重はまだ問うべきではございません」
と、丁寧にことばを択びながらよどみなく述べた。
荘王は論争をやめて軍を返し、帰途についた。
幼童時にみせた怜悧さを長じても失わなかった王孫満の胆知が、周を滅亡の危機から救ったのである。

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