勇猛な小心者 項羽と劉邦を恐れさせた刑余の王 英布(黥布)(楚漢)(2) 裏切りの勧説
「衣繡夜行」
という成語は、『史記』項羽本紀にある
「富貴にして故郷に帰らざるは、繡を衣て夜行くがごとし」
という項羽の発言からきている。
「故郷へ錦を飾る」
ということばがあるように、立身出世して帰郷し、旧知の人びとからもてはやされることが
大変な名誉であるのは、古今東西変わりなかろう。
そして、それは、英布(黥布)もおなじであった。
ひたいに入れ墨をほどこされた前科者が、謀叛を起こして去っていった郷里に、
わずか数年で王となって帰ってこようとは、たれが予想できたろう。
故郷に近づくにつれ、英布の胸裡にせまるものがあったのではなかろうか。
中国史人物伝シリーズ
目次
故郷に錦
紀元前二〇六年四月、英布は関中を発ち、六へおもむいた。
秦の九江郡の郡都は、楚の最後の都でもあった淮水南岸の寿春であったが、
英布が九江王になると、故郷の六を国都に定めた。
淮水を渡り、見慣れた光景に出くわすと、この地の王になった実感が湧いてきた。
六にはいると、かつてかれに対してまゆをひそめていた者たちが、王になったかれに吏民問わず平伏している。
――人というものは、かくもげんきんなものなのか。
英布は内心首をかしげたものの、みなが自分の機嫌をとってくれることにたいしては、悪い気がしない。
そんな英布であっても、国を治めることになると、頭をかかえるしかない。
戦いに明け暮れていた英布に、政事がわかろうはずがない。
英布は郷里で評判がよかった賁赫を中大夫(参議官)兼侍中(側近)に任じ、領内の統治をまかせた。
そして、みずからは愉悦に浸ろうとしたが、落ち着くまもなく、
「義帝を撃て」
と、項羽から命じられた。
「わかりましてございます」
そう即答した英布は、八月に部将を遣り、長沙へ移動していた義帝を襲撃させた。
義帝は郴県に追いつめられ、殺されてしまった。
間 隙
英布は、翌年(紀元前二〇五年)にも、
「出陣し、斉を撃て」
と、項羽に命じられた。そのとき、英布の胸裡に、
――項王はあいかわらずわれを臣下のごとく扱いなさるが、わしは王なんじゃぞ。
と、王としての矜持がもたげた。
これを抑えきれなかった英布はへそをまげ、
「病でございますゆえ」
と、遁辞をかまえて出陣せず、代わりに部将に数千人をつけて項羽に加勢させた。
それ以来、英布は項羽にたいして後ろめたさを感じるようになった。
さらにその後、
「彭城(項羽の拠城)が、漢に奪われました」
という報せに接しても、英布は、
「病が、まだ癒えんのじゃ」
と、称し、楚に援軍を送ろうとしなかった。
「どういうことじゃ」
項羽からの使者がいくたびも九江にきて英布を問責し、召しだそうとした。
――往けば、殺されよう。
英布はますます恐れ、往こうとしなかった。
項羽は、敵対する者には決して容赦しない。
――項王に、攻められる。
そうおもうと、英布は気が気でなかった。
説 客
年があらたまり、紀元前二〇四年になった。英布は、
――いつ項王の軍に攻められるのか。
と、恐れ、ふさいだ顔でため息をつくことが多かった。そんななか、
「漢の謁者(取次ぎ役)の随何どのが、大王にお会いしたいと……」
と、太宰に話しかけられた。
太宰は食膳の官であるとされるが、家宰という説もある。要するに、奥向きの役職である。
「漢王(劉邦)が、われを……」
そうつぶやいた英布は、
――たしかに、われはいま、項王に恨まれていよう。だからといって、楚を裏切って漢につく気などない。
と、おもい、笑って聞き流した。
三日経ち、太宰がふたたび英布の耳に、
「随何どのが、こう申されております」
と、吹き込んできた。太宰の話によれば、
「大王がわれを引見なさらないのは、楚が強く、漢が弱いとおもっておられるからでしょう。
それゆえ臣が使いに参ったのです。どうかわれに機会をお与えください。
われが申し上げることが正しければ、それは大王がお聞きになりたいことでありしょう。
まちがっているのなら、われらを淮南の市で斧質の刑に処し、大王が漢に敵対して楚につくことを示されませ」
と、随何が話しているという。
「そこまで申すのなら」
英布は、随何を引見することにした。
説 述
儒者随何
英布は、随何との会見を、ひそかにおこなった。
楚の間者の目を気にしたからである。
――儒者か。
英布は、胸裡でそうつぶやいた。
随何は、逢掖の衣(袖が大きくゆとりのある服)を着て圜冠(まるい冠)をかぶり、
句履(四角いくつ)を履き、佩玦を腰に帯びていた。
いわゆる儒者のいでたちである。
英布は、儒者にたいして特別な感情をもっていなかったが、
――やたらと理屈をこねる連中だな。
と、感じていたので、
――けっしてまるめ込まれたりはせんぞ。
と、かまえた。
臣下の務め
「大王は、楚とどれくらい親密なご関係なのでしょうか」
随何がいきなりそう問うてきたので、英布の口からとっさに、
「寡人(諸侯の一人称)は、北面して楚に臣事しておる」
ということばがついてでてきた。
随何は哄笑し、
「大王は項王と同格の諸侯でありますのに、北面して項王に臣事されるのは、
きっと楚が強くて、国を託すことができるとお思いだからでしょう」
と、返した。
英布は、心中にあったものをいい中てられたような気がして、なにもいい返せなかった。
「項王が斉を伐ったとき、みずから版築(牆壁を築くのに用いる板と杵)を背負い、士卒の先頭に立ちました。
大王は淮南の全軍をみずから率いて、楚軍の先鋒となられるべきなのに、わずか四千の兵をだしただけでした。
北面して人に臣事する者が、これでよいのでしょうか」
そういわれると、英布はおのれを愧じるしかない。
「漢王が彭城で戦い、項王がまだ斉にいるうちに、大王は淮南の兵を総動員して淮水を渡り、
彭城で漢軍と戦われるべきでした。それなのに、大王は万を数えるほどの兵力を擁しながら、淮水を渡らず、
手を拱いてどちらが勝つか日和見を決めこんでおられました。
国を託そうというのに、そんなことでよろしいのでしょうか」
そうたたみかけられて、英布はすっかり恥じいってしまった。
見せかけの強弱
「大王は空名をひっさげて楚に面しておきながら、自身は楚から厚遇を受けようとなされておいでです。
これは大王のためにならない、と臣は愚考いたします」
――なにゆえか。
英布は、目で続きをうながした。
「それでも大王が楚に背かれないのは、漢が弱いとお考えゆえでございましょう。
たしかに楚の兵は強いですが、天下はかれらに不義の汚名をきせております。
盟約に背いて義帝を殺したからです。ところが、楚王は戦勝を恃み、みずから強いとおごっております。
一方、漢王は諸侯を味方にし、引き返して成皋と滎陽を守り、蜀や漢の穀物を運びこみ、
溝を深くして城壁を築き、兵を分けて辺境を守らせ、城塞にのぼらせて見張りをさせています。
楚人は兵を返そうにも、あいだに梁の地があり、敵国に八、九百里も深入りして、戦うに戦えず、
城を攻めようにも力が足りず、老人や子供までもが千里のかなたから食糧を運んでいるありさまです。
楚の兵が滎陽や成皋にやってきても、漢が堅く守って動かなければ、進もうにも攻められず、
退こうにも囲みを解くことができません。それゆえ、楚は恃むに足りない、と申しあげているのです。
楚が漢に勝てば、諸侯は楚を懼れ、漢を援けましょう。楚が強ければ、天下の兵を招きよせてしまうだけです。
それゆえ、楚が漢に及ばないのは、明白でございます」
――はたして、そうであろうか。
英布は、内心首をかしげた。
説 伏
随何は、なおも説述をつづけた。
「大王は万全の漢にお味方なされず、みずから滅亡の危機にある楚に国を託そうとなされておいでですが、
それはどうなのでしょうか。臣は、淮南の兵だけで楚を滅ぼせるとは考えてございません。
もし大王が兵を挙げて楚にそむかれますなら、項王はかならず斉にとどまりましょう。
項王が数か月も斉にとどまることになれば、漢は天下を取ったも同然です。
臣は、大王が漢に帰順されるお伴をさせていただきたいのです。
漢王は、かならずや地を割いて大王を封じましょう。きっと淮南は大王のものになりましょう。
それゆえ、漢王は臣を遣わして大王に愚計をお進めいたしたのでございます。
どうか大王にはこのことに御意を留められますよう」
きいているうちに、英布はおのれの胸奥深くに澱んでいたものがすくい出されたような気がした。
そのため、英布は、
「仰せのとおりにいたそう」
と、応じたものの、外見をはばかり、まだたれにも泄らさなかった。
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