Blog ブログ

Blog

HOME//ブログ//山越を震わす威を誇った知勇にすぐれた名将 賀斉(三国 呉)(2) 積行累勤

中国史人物伝

山越を震わす威を誇った知勇にすぐれた名将 賀斉(三国 呉)(2) 積行累勤

賀斉(1)はこちら≫

賀斉は県長代行を務めていた際に、山越(山岳地帯の原住民)を撃破して、威を震わせた。

その後、出身地の会稽をあらたに治めることになった孫策と孫権に仕え、

孫氏に順わぬ勢力を次々に撃破していった。

賀斉は叛徒の平定のみならず、占領行政にも異能を発揮し、

平定した地の住民の慰撫につとめるとともに、

行政機構を再構築し、孫呉政権の安定化に大きく貢献した。

赤壁の戦いのあった建安十三年(二〇八年)、

孫呉は曹魏と戦うより前に、

長江中流では孫権が江夏太守の黄祖を伐ち、

長江下流においては賀斉が丹楊平定に乗りだしていたのである。

中国史人物伝シリーズ

孫呉三代の仇敵 短気な老将 黄祖

目次

林歴山の戦い

建安十三年(二〇八年)、賀斉は威武中郎将に遷任され、丹楊郡の黟県と歙県を討伐した。
最初に武彊・葉郷・東陽・豊浦の四郷が降ると、賀斉は上表して葉郷を始新県に昇格させた。
黟の賊の渠帥陳僕と祖山らは、二万戸を従えて林歴山にたてこもった。
林歴山は四面がきり立ち、高さは数十丈、路すじは険しくて狭く、
刀や楯を使うことができず、兵が近づけば賊が高所から石を隕としてきた。
そのため、賀斉の軍は攻めあぐみ、何日も進軍することができず、将吏の士気が低下しはじめた。
賀斉はみずから林歴山のまわりを一周して地形を観視すると、
ひそかに身軽で敏捷な兵士を募り、鉄弋を作らせた。
そして、人目につかず賊が見張りをおいていないようなところを鉄弋で山を斬り拓いて道をつくり、
夜陰にまぎれてひそかにその道を通って山をのぼらせると、
上から数多の布を垂らして下にいた人を引っ張りあげさせた。
その一方で、賀斉は兵を勢揃いさせて、待機を命じた。
数百人が山の上にのぼると、四方にちらばって、いっせいに太鼓や角笛を鳴らした。
賊は驚懼惑乱してしまい、要害を守っていた者らもみな逃げ還り、本隊に合流しようとした。
「いまだ。かかれ」
賀斉の軍は山をのぼり、陳僕らをおおいに撃ち破り、七千級を斬首し、残りはみな降服した。
賀斉は上表して歙県を分割して新定・黎陽・休陽県をつくった。
孫権は、これら三県に黟県と歙県、さらにさきに歙県から分割して立てられた始新県をあわせた六県を
丹楊郡から割いて新都郡とし、郡府を始新に置かせた。
そして、賀斉は新都太守に任じられ、偏将軍を加えられた。

積行累勤

建安十六年(二一一年)、呉郡餘杭県で反乱が起こり、またたくまに数千人の勢力に膨れあがった。
賀斉は出師し、たちまちのうちにこれを撃ち破った。
賀斉は上表して、餘杭県を分割して臨水県をつくった。
その後、賀斉は命により秣陵へゆき、孫権に拝謁した。
賀斉が新都郡に還る際、なんと、孫権がかれを送りに郊行し、祖道(送宴)をもよおしてくれた。
その席で、賀斉は軿車(幌馬車)と駿馬を賜わり、感慨に浸った。
宴が終わり、孫権が車駕に乗ると、
「将軍も、車に乗られよ」
と、賀斉に催促してきた。
——わが君の御前で車に乗るなんて、おそれ多い。
賀斉は辞退したものの、孫権は左右の者に命じて賀斉をむりに軿車に乗らせ、
郡にいるときのように吏卒や兵騎を従え、威儀を整えさせた。
そのようすをみて、孫権は笑いながら、
「努めねばならぬ。徳行を積み、忠勤を累ねなければ、このようにはなれん」
と、いい、賀斉が百歩ほど進むのを見送ってから城にもどった。

出鎮江上

建安十八年(二一三年)、豫章郡の東部で反乱が起こり、その勢力が一万人を超えた。
賀斉はこれを平定して、賊の主だった者を誅し、残りはみな降服した。
そのなかから精健な者を択んで兵とし、残りを県の戸籍に編入した。
この功により、賀斉は奮武将軍に遷任された。
建安二十年(二一五年)、賀斉は孫権に従って合肥に遠征した。
魏軍との戦いで呉の将徐盛が負傷して、かれの軍が崩れてしまい、牙旗(帥将の旗)を棄てて逃げてしまった。
賀斉はそれをみると、魏軍の攻撃を拒ぎつつ、失った牙旗を奪い還した。
建安二十一年(二一六年)、鄱陽郡の民の尤突が魏に内通して反乱を起こすと、
丹楊郡の陵陽県・安呉県・涇県がみな尤突に呼応した。
賀斉は陸遜とともに尤突を討ち、数千人を斬首すると、他の者どもがおそれてみな降服してきた。
賀斉はそのなかから精兵八千人を得た。
孫権が関羽を破って呉王になり、建業(秣陵)から武昌に遷ると、
賀斉は安東将軍を拝命し、山陰侯に封じられ、
長江のほとりに駐屯し、扶州から長江の上流の皖までの軍事を統轄した。
(扶州から長江の河口にかけての軍事は、呂範が統轄した。)

洞口の戦い

黄武元年(二二二年)、呉を攻めてきた劉備を陸遜が撃ち破る(夷陵の戦い)と、
こんどは魏が三路から呉に侵攻してきた。
賀斉は建業を守る呂範の指揮下に入るよう命じられ、船団を率いて建業にむかった。
建業の対岸からさほど遠くない洞口に、曹休が十万を超える大軍を率いてきていた。
賀斉の駐屯地は戦場から遠く、呂範の軍に合流するまでに日数がかかった。
だが、戦況はかれの到着など待ってはくれない。
呂範は、船団を率いて洞口の魏軍を攻撃しようとした。
ところが、突然の大風に遭って船が覆り、数千人が溺死してしまった。
そこに、曹休軍の追撃をうけ、呂範軍は大敗を喫した。
合戦に間に合わなかった賀斉は、新市に軍をとどめて魏軍を拒いだ。
すると、諸将は無傷の賀斉軍をたよって態勢を立て直し、魏軍を撃攘した。
戦後、賀斉は後将軍に遷任され、仮節を与えられて徐州牧に任じられた。

晋宗討伐

戯口の守将であった晋宗が呉にそむき、手勢をひきつれて魏に亡命した。
魏から蘄春太守に任じられた晋宗は、武昌県の安楽を襲撃しようと図った。
そこには、かれが呉にさしだしていた人質がいた。それを奪い戻そうと考えたのである。
そのようなおりの黄武二年(二二三年)六月に、
「蘄春を襲え」
と、孫権から命じられた賀斉は、麋芳や鮮于丹らをしたがえて蘄春を襲撃した。
不意をつかれた晋宗は、あえなく生け捕りにされた。

賀斉は佳将の令名を保ったまま、黄武六年(二二七年)に亡くなった。

SHARE
シェアする
[addtoany]

ブログ一覧