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中国史人物伝

変節漢か処世の達人か 漢王朝の礼法の基礎を築いた 叔孫通(前漢)

幾度も主君を替えた者は、

「裏切り者」「変節漢」

などと、非難されるが、「築城の名手」と称された藤堂高虎は、

「武士たるもの、七度主君を変えねば、武士とは言えぬ」

と、開き直った。

乱世において、主君を変えつつキャリアアップするのは、不義理でも恥ずべきことでもなかった。

漢の高祖劉邦に仕えた学者で、

「主君に阿諛する御用学者」「変節漢」

として知られる

叔孫通

は、どうであったか。

中国史人物伝シリーズ

叔孫氏の尤物 "三不朽" 叔孫豹

目次

虎口を脱す

叔孫通は薛(春秋の魯)の出身で、秦代に文学(学問)で徴召された。
陳勝が蜂起すると、二世皇帝は博士や学者を召しだして、
「楚の戍卒が陳を攻めたらしいが、どうおもうか」
と、諮うたところ、
「それは謀叛です。すぐに兵を出して撃たれますよう」
と、応じたので、二世皇帝は色をなした。
――まずい。
叔孫通はそう感じ、すかさず、
「かれらは間違っております。天下はひとつになり、兵器を鋳つぶして二度と用いないと示しました。
しかも明主が上におわし、法令が下に備わり、人びとに奉職させ、四方の民が帰服してきます。
どうして叛いたりしましょうか。これは群盗や狗盗のようなもので、相手にするに及びません。
郡の役人がいまにも捕えましょう。憂えるほどのことではございません」
と、申し上げると、二世皇帝は喜んだ。
帛二十匹と衣服一組を賜り、博士に任じられた叔孫通は、舎にもどると、
「なんともひどいへつらいようでしたね」
と、学者たちから皮肉をいわれた。
「君らにはわからなかったのか。われはすんでのところで虎口を逃れられなかったんじゃぞ」
叔孫通はそう返すや、秦から脱出して薛へ逃げた。

稷嗣君

項梁が薛に来ると、叔孫通はこれに従い、項梁が戦死すると懐王に仕え、
懐王が長沙へ遷ると、叔孫通は留まって項羽に仕えた。
漢の二年(紀元前二〇五年)、漢王劉邦が彭城に入ると、叔孫通は漢に投降した。
叔孫通は儒服を着ていたが、
――大王は気にいらぬようじゃ。
と、察し、服を楚の短衣に替えた。
すると、劉邦は喜んだ。
叔孫通は漢に投降したとき、百余人の弟子をかかえていた。
しかし、かれは弟子をたれひとり劉邦に推挙せず、もと群盗や壮士ばかりを推挙した。
すると、弟子たちから不満をぶつけられた。
「先生に数年仕え、幸いにも漢に従うことができました。
それなのに先生は臣らを薦めず、狡猾な連中ばかり推挙なされるのは、どういうことなのですか」
「漢王は矢石を冒し天下を争うておられる。諸君ではどうして闘えようか。
ゆえにまず敵将を斬り敵の旗を奪うことができる士を推挙したんじゃ。
諸君はしばらく待たれよ。われは諸君を忘れてはおらん」
そう弟子たちをなだめた叔孫通は、劉邦から博士に任じられ、
稷嗣君
と、号した。

漢の儀礼

漢の五年(紀元前二〇二年)、劉邦は天下を制し、皇帝に擁立された。
その後も群臣の粗暴なふるまいは変わらず、酒を飲んでは功を争い、
酔って妄りに大声で叫んだり、剣を抜いて柱に撃ちつけたりした。
――主上は、臣下の狼藉を患えておられる。
叔孫通はそう察し、劉邦に説いた。
「儒者はともに進取することはできませんが、ともに守成することができます。
願わくは、魯の学者を徴召し、ともに朝廷の儀礼を定めさせていただきたく存じます」
「難しいんじゃないか」
「五帝の音楽は違っていましたし、三王は礼法が違っていました。
夏・殷・周の礼法は増減したところがわかる、というのは、同じ礼が繰り返されないことをいうたものです。
臣は古の礼を採用し、秦の儀法をまじえて創ろうと存じます」
「ためしにやってみよ。わかりやすいものにしてくれよ。わしができるようにな」
叔孫通は劉邦の許しを得て、魯の儒者三十余人を徴召したが、
「あなたは十人もの主に仕え、おべっかを使って気にいられ、出世しました。
いま天下が平定されたばかりなのに礼楽を起こそうとされていますが、
礼楽が起きるのは、徳を百年積んでからです。あなたがなさることは、古に合っていません」
と、出仕を拒む儒者が二人いた。
「なんじらこそ本当の鄙儒というもの、時代が変わったことを知らないんじゃ」
そう笑い飛ばした叔孫通は、徴召した儒者と長安へゆき、ひと月余り儀礼を演習した。
「これなら、わしもできそうじゃ」
劉邦は演習を観て、そういった。

礼の効用

漢の七年(紀元前二〇〇年)、長楽宮が完成し、諸侯や群臣が参朝して拝賀した。
式は叔孫通が定めた儀礼に従って行われ、諸侯王以下恐れ敬わぬ者はなかった。
これが終わると、酒宴が催された。
御史が宴を監視し、儀礼に外れた者をみつけると連れだしたため、口喧嘩して礼に外れる者はいなかった。
「わしは、今日はじめて皇帝の貴さを知ったわ」
劉邦は、そういって喜んだ。
叔孫通は奉常(宗廟礼儀を掌る官)を拝命し、金五百斤(約三百キログラム)を賜った。
すかさず、叔孫通は劉邦に願い出た。
「弟子や儒生たちは長く臣に従い、ともに儀法をつくりました。
願わくはかれらを官人にとりたてていただきますよう」
「あいわかった」
上機嫌の劉邦は、かれら全員を郎官(宮中の役人)に任じた。
叔孫通は退出すると、五百斤すべてを儒生たちに分け与えた。
「先生は聖人じゃ。当世の要務をご存じじゃ」
儒生たちは、みな喜んでそういった。

帝王の師

太子廃替

漢の九年(紀元前一九八年)、叔孫通は太子太傅(太子の師)に遷任され、太子の劉盈に仕えることになった。
――やさしいお方じゃ。
叔孫通は、はじめて仕えがいのある君主に出会えたような気がした。
劉邦が太子を廃替しようとすると、叔孫通は諫言を呈した。
その後、劉盈の生母である呂后の哀訴に応じた張良の策により、劉邦は太子の廃替をあきらめた。

原 廟

漢の十二年(紀元前一九五年)、劉邦が崩じ、劉盈が即位した。恵帝である。
「先帝の園陵(御陵)・寝廟(霊堂)を奉祀する儀礼を知る者がおらぬ」
恵帝はそういって叔孫通を奉常に遷任し、宗廟の儀法を定めさせた。
恵帝が長楽宮にいる呂太后を朝見する際、通行を止め、人の往来を妨げた。
これを気にした恵帝は復道を造ろうとして、武器庫の南から築きはじめた。
叔孫通は、恵帝の閑暇をうかがって、
「なにゆえ陛下は復道を築かれますのか。高祖の寝殿にある衣冠は、月に一度高廟へ移されます。
どうして子孫が宗廟への道の上に乗って行けましょうや」
と、言上すると、恵帝は大いに懼れて、
「急いでとり壊せ」
と、いった。叔孫通はゆるやかに首をふり、
「人主に過ちがあってはなりませぬ。いますでに築造がはじまったことを、人民はみな知っております。
廟を渭水の北に造られ、衣冠は毎月そこに移すようになさいませ。宗廟を広くするのは、孝行の大本です」
と、提案した。
「おお、そうか。では、そうしよう」
恵帝は、役人に命じて廟を造らせた。

桜 桃

その後、恵帝が離宮に行幸した。
「古は春に果物を食べたものです。ちょうどいま桜桃(ゆすらうめ)が熟しております。
宗廟に献じてはいかがでしょうか」
叔孫通がそう進言すると、恵帝はこれを許した。
以後、宗廟に多くの果物が献じられるようになった。

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