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中国史人物伝

大俠・郭解の玄孫 廉直公正で民に慕われた能吏 郭伋(後漢)

漢の武帝の時、郭解という有名な俠客がいた。

かれは権力や法よりも信義を重んじ、行蔵はおのれの言に違わず、

生死を顧みずに困窮する人を助け、法を犯してでも人を匿った。

そのため、巷間にあって顔役として人びとから慕われ、将相ですら一目置いた。

しかし、その威勢ゆえに武帝に目をつけられてしまい、一族皆殺しの憂き目に遭った。

これで絶えてしまったとおもわれた郭解の血胤から、

郭伋(あざなは細侯)(紀元前38-47)

があらわれ、後漢の北方鎮撫に活躍した。

法に縛られないアウトロー的な生き方をした高祖父とは異なり、

郭伋は廉直公正で、民に恩徳を施して慕われた能吏であった。

中国史人物伝シリーズ

目次

地方官を歴任

郭伋は扶風茂陵県出身で、若いころから高い志をいだくとともに善行が多く、
哀帝期から平帝期にかけて大司空(副首相)府に辟招され、三たび遷任して漁陽都尉(軍事官)となった。
新代になると上谷大尹(太守、行政官)に任じられ、幷州牧(知事)に遷った。
のちに更始帝が新を滅ぼすと、郭伋は徴召されて左馮翊(長陵以北の行政官)を拝命し、
更始帝への帰順をためらう関中の人民を鎮撫した。
さらに、光武帝が即位すると、郭伋は雍州牧を拝命し、さらに尚書令(秘書官)に転任され、
しばしば忠を尽くして諫争し、廉直公正という名声を得た。
建武四年(二八年)、郭伋は六十七歳で中山太守に転出した。
光武帝が争臣を忌嫌する君主ではなかったことを想うと、
郭伋の才幹は中央より地方官の方が適していると判断されたのであろう。

漁陽太守

建武五年(二九年)に彭寵が滅びると、郭伋は漁陽太守に転任された。
漁陽は新代の混乱や彭寵の叛乱が相続いたこともあり、狡猾な民が多く、賊もはびこっていた。
六十八歳になった郭伋は、漁陽に着任すると、信賞を明示し、賊の渠帥(頭目)を誅殺したため、
盗賊がいなくなった。
――つぎは、匈奴じゃ。
当時、匈奴が何度も郡境を侵犯し、掠奪をはたらいたため、辺境の人びとは困苦していた。
郭伋は兵馬を整えて攻守の戦略を立て、実行したため、
匈奴は畏れ憚って遠ざかり、あえて再び塞に攻め入ろうとしなかった。
これで人民は安心して生業にいそしむことができるようになった。
かれが漁陽太守を務めた五年のあいだに、漁陽の戸口が倍増した。

千里を潤す徳

建武八年(三二年)、潁川郡の盗賊が蜂起し、属県を陥とした。
隗囂を討伐するために隴右へ親征していた光武帝は中原に引き返し、みずから潁川郡へ征き、盗賊を降した。
動揺のおさまらない潁川を鎮めるため、白羽の矢が立ったのが、七十三歳の郭伋であった。
建武九年(三三年)、郭伋は徴召されて潁川太守を拝命した。
赴任のあいさつをするために光武帝に謁見すると、光武帝は郭伋をねぎらい、
「賢能なる太守よ、君は帝城を去るが、遠くへゆくわけではない。
黄河の水は九里を潤すという。願わくは京師(首都の洛陽)もあわせて福を授かれるように。
君は追捕にすぐれているが、険阨な山道では、自ら闘えば兵士一人に当たれるだけじゃ。深く慎しむように」
と、声をかけた。
――主上は、力政を戒めておられるのじゃ。
郭伋は潁川郡に到ると、趙宏や召呉ら山賊を招いて懐柔した。
すると、みな手を束ねて郭伋に投降してきた。
郭伋はかれらをみな許して、帰農させた。
そのうえで、勝手に賊を釈放したかどでみずからを弾劾した。
光武帝は郭伋の処置を称め、咎めなかった。
郭伋はみごとに賊を手なずけた、といってよいであろう。
後に趙宏や召呉らの仲間は、郭伋の威信を聞き、遠くは江南から、あるいは幽州や冀州から帰服した。
郭伋の徳は、九里どころか千里を潤したのである。

二たび幷州へ

建武十一年(三五年)、漢は朔方刺史(監察官)を廃し、幷州に属させた。
このころ、盧芳が北方に拠り、北辺を侵していたため、光武帝は郭伋を幷州牧に任じた。
――龍顔を拝することは、もうないじゃろう。
七十四歳の郭伋が謝辞を述べるために都へのぼると、光武帝は郭伋を引見して終日楽しく語りあい、
車馬・衣服・什物(調度品)を下賜した。
「高官には、天下の賢俊を選任されるべきです。南陽の人ばかりを用いてはなりません」
郭伋が光武帝の同郷びいきを諫めると、光武帝は、
「あいわかった」
と、応じた。
郭伋が幷州にはいると、到るところの県邑で老幼が手を携えてかれを迎えに道路に出た。
幷州の人民は、郭伋の徳治を憶えていてくれたのである。
郭伋は道すがら民の難儀をたずね、有徳の老人や賢人を招聘し、
几杖(ひじかけとつえ)を与えて優待し、朝な夕なに政事に参与させた。

竹馬童児

郭伋が幷州の州内を巡視して、西河郡の美稷県に到った。
竹馬に乗った数百人の童児が道でかれを迎え、拝礼した。
「きみたちは、どうしてそんなに遠くからやって来たんだい」
郭伋がそうたずねると、童児たちは、
「使君(州牧)がやって来られると聞いて喜び、ここまで奉迎に参りました」
と、うれしそうに答えた。
「そりゃどうもありがとう」
郭伋は感動し、謝辞を述べた。
巡察が終わると、郭外まで見送りにきてくれた童児たちから、
「お還りはいつになりますか」
と、たずねられた。
「さて、いつじゃろうかな」
郭伋は別駕従事(副知事)に日数を計算させ、童児たちに予定日を告げた。
巡視を終えて還ってくると、童児たちに告げた日より一日早かった。
「ひと晩、泊まってゆくか」
郭伋は野外で宿泊し、童児たちに告げた日になってから美稷県に入った。

我慢くらべ

建武十二年(三六年)に、大司空の席が空いた。
このとき、朝廷では郭伋を大司空にすべきであるという声が多かった。
しかし、光武帝は郭伋を徴召しなかった。
幷州にはなお盧芳の難があり、しかも背後に匈奴がいるため、解決に時間がかかると考えていたからである。
――盧芳は旧くからの賊で、にわかに武力で制するのは難しかろう。
郭伋はそう考え、警戒を厳しくし、懸賞を明言して賊の気を引こうとするとともに、内訌が生じるのを待った。
この年、盧芳が雲中を攻略できなかったため、盧芳の部将である隨昱が盧芳を脅して郭伋に降ろうと謀り、
盧芳は匈奴に亡命した。

息 肩

匈奴の脅威が、弱まった。
――もう、よかろうよ。
八十歳を超えた郭伋は、老病のため、骸骨を乞うた。
建武二十二年(四六年)、光武帝は郭伋を徴召して太中大夫(皇帝の顧問官)とし、
邸宅、帷帳、金銭ならびに穀物を下賜し、それらが邸内に充ちるほどであった。
それらを一族に余さず分け与えた郭伋は、建武二十三年(四七年)に八十六歳で亡くなった。
弔問には光武帝がみずから訪れ、墓地を下賜した。

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