将相にも一目置かれた最後の俠客 郭解(前漢)
なかには俠客(俠者または游俠ともいう)もいた。
かれらは権力や法よりも信義を重んじ、行蔵はおのれの言に違うことがなく、
生死を顧みずに困窮する人を助け、法を犯してでも人を匿った。
俠客は巷間にあって顔役として人びとから慕われた。
魏の信陵君を慕い、任俠を気取ったとされる劉邦が漢王朝を建てた後もその風俗は廃れず、
『史記』や『漢書』には游俠列伝が立てられている。
ところが、武帝期以降、儒学が重んぜられてゆくにつれて、
法に縛られないアウトロー的な生き方が社会から否定され、次第に廃れていった感がある。
その変わり目に活躍した大俠が、
郭解(あざなは翁伯)
であった。
かれに引導を渡したのが儒者大臣を代表した公孫弘であったことが、
時代の風潮の変化をより一層感じさせる。
中国史人物伝シリーズ
季布の一諾(1)(2)
目次
軹県の暴れん坊
郭解は河内郡軹県の出身で、人相見で有名な許負の外孫である。
郭解の父も任俠で、文帝のときに誅殺された。
郭解は小柄ながら精悍で、酒を嗜まなかった。
若いころ、かれは友を助け仇に報いると称して多数の人を殺したり、亡命してきた者を匿ったり、
姦悪を行ったり、劫盗を働いたり、私銭を鋳造し塚を盗掘するなど悪事の限りを尽くした。
それが長じてからはつつましくなり、徳をもって怨みに報い、他人に恩を施しても恩返しを期待しなくなった。
しかも、自ら好んで義俠を行い、生命を救っても功を矜らなかった。
それでも、睚眥の怨みで殺意をいだくのは相変わらずであった。
郭解を慕う悪少年たちが郭解のために報復していたが、郭解はそれを知らなかった。
謙 退
公私の別
郭解の甥(姉の子)は叔父の威勢を恃みに不遜なふるまいが多く、酒席で人と争い、刺殺された。
「翁伯(郭解)がおりながら、他人にわが子を殺されて下手人を捕えられないとは」
母である姉は、子の屍体を路傍に放置した。
下手人は自首し、郭解にありのままをつぶさに白状した。
「きみがあいつを殺したのは当然じゃ。あいつが悪い」
郭解はそういって下手人をとがめず、甥の屍体を収めて葬った。
これを聞いた人びとはみな郭解の義俠を尊重し、ますます郭解を慕うようになった。
謙 虚
郭解が外に出ると、人びとはみな道を避けた。
ところが、ひとりの男が両足を前に投げ出したまま、坐して郭解を視ていた。
「無礼なやつめ――」
賓客がその男を殺そうと息巻くと、郭解は、
「田舎にいながら尊敬されないのは、おのれの徳が至らぬからじゃ。かれに何の罪があろう」
と、制止し、役所へゆき、
「あの男はわしにとって大切な人じゃ。夫役を免除してやってもらいたい」
と、県尉(武官)に頼んだ。
その後、夫役徴発があってもその男が駆り出されることがなかった。
不思議におもってわけを調べると、郭解のはからいによるものであったことがわかった。
その男はすぐに郭解のところへゆき、肌脱ぎして罪を詫びた。
郭解は、これを聞いた若者たちからより慕われた。
寡 欲
洛陽の人で、たがいに敵対しあっている者がいた。
地元の名士たちが仲裁にはいったものの、いずれも和解させることができなかった。
そこで、ある賓客が郭解に仲裁を依頼した。
軹から洛陽までは、百二十里(約五十キロメートル)ある。
郭解は夜間に車を駆って洛陽へゆき、当事者たちに会い、和解させた。
「われがよそからきて地元の名士を出し抜くことができようか」
そういった郭解は、
「しばらくのあいだ和解できたことにせず、われが去ってしまうまで待ってから、
あらためて洛陽の名士に仲裁してもらうのがよい」
と、当事者たちにいいふくめて夜が明けるまえに洛陽を去っていった。
配 慮
郭解は外出時に従騎を伴わず、車に乗ったまま県の役所に乗り込むようなことをしなかった。
他人の救出を頼まれれば、救い出せそうなら救い出し、救い出せなければ
依頼者と本人を納得してもらうまで説得し、それからでなければ酒食をとろうとしなかった。
人びとは郭解をはばかって尊重し、かれの役に立とうと争った。
夜半に郭解邸の門を叩く者の車がいつも十数台は停まっており、
郭解が匿っている亡命者を引き取り、支援した。
茂陵移住
武帝が寿陵(生前に造営する墓)である茂陵に、天下の富豪を移住させようとした。
対象となるのは、三百万銭以上の資産を有する者であった。
郭解はそれら資産家に引けを取らないほどの巨利を得ていた。
しかし、郭解はそれを惜しげもなく他人のために使い果たしたため、貧しかった。
そんなかれを恐れ、役人はあえて移住させようとせず、大将軍の衛青も、
「郭解の家は貧しく、移住の対象ではございません」
と、口添えしたが、武帝は、
「布衣でありながら、将軍にものがいえるほどの権勢がある。貧しいわけがない」
と、断じ、郭解を茂陵へ移した。
郭解が軹県を去る際、見送った人びとから贈られた餞別がなんと千万銭を超えたという。
それを苦々しくおもった県の役人がその授受を妨害しようとしたところ、郭解の甥に殺された。
郭解の名声は、関中でも知られていた。
郭解が関中に入ると、関中の賢人や豪傑は競ってかれと交歓した。
その頃、軹県では殺された役人の家の者が、上書して訴えた。
「郭解を捕えよ」
武帝は、役人にそう命じた。
郭解は太原郡まで逃げたものの、捕えられ、厳しい取り調べを受けた。
しかし、かれが犯した殺人はいずれも恩赦以前のことであったので、罰せられなかった。
末 路
軹県では、郭解の食客が郭解を手放しで称賛していた。
そこへ、ある儒生が、
「郭解は悪事をはたらき、公法を犯している。どうして賢人といえよう」
と、反論した。
「さかしらなやつめ――」
食客はこの儒生を殺し、その舌を抜いた。
郭解はこの件で役人から取り調べを受けたが、儒生を殺した食客と面識がなかった。
「郭解は無罪です」
役人がそう奏上したところ、御史大夫(副首相)の公孫弘が、
「郭解は布衣でありながら任俠をおこない、睚眥の怨みで人を殺している。
きゃつが知らなかったとしても、自ら殺すよりも罪は重い。大逆無道の罪にあたる」
と、断じ、郭解の一族はみな殺しにされた。
郭解の後裔は、断絶したとおもわれる。
それなのに、かれの玄孫を名告る人物があらわれたのであるから、歴史は興味深い。
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